TPP以降の農業

   

政府は「聖域」と言われていた米の市場開放を行った。農産物は守ったなどいっているが、とんでもない話だ。どうせこういう政府だとは思っていたので驚くことはないが、このことで日本農業がどのように変わってゆくのかは考えておく必要がある。普通の米農家は経営が出来なくなる。これだけは間違いがない。生き残るとすれば、自給的農家と、企業経営の農家になる。これから農業を目指す若い人であれば、どちらかの道を考えない限り、米農家では無理だろう。野菜や果樹農家はまた別のことだ。稲作というものは、日本の伝統的文化として日本人の心に沁み込んでいる。そして日本人がノーベル賞をいただけるような人が沢山現れるのも、稲作文化があってこそのことだ。人のことを思いやる心が稲作によってはぐくまれたのだと思う。日本のお米が企業経営のお米と自給用のお米に2分してゆくだろう。いわゆる小さい農家は消滅させられることになる。そして、中山間地の稲作は消えることになる。

中山間地から田んぼがなくなるということは、日本が美しい国ではなくなるということだ。瑞穂の国でなくなるということだ。これだけは覚悟しなければならない。沖縄の景色が残念なのは、田んぼがない姿だ。日本中が20年後には中山間地の田んぼが消えているだろう。伝統農業として、いくらかは残るだろうが、産業的規模では消えることはほぼ確実だろう。まだ紆余曲折はあるだろうが、大きな方向はそう決まったようなものだ。背に腹は代えられないと安倍氏は考えてこの決断をしたのだろうとは思う。しかし、日本人でなくなってまで、この国の経済を企業にかけてみたところで、何の意味があるのか。そこはそれぞれの選択だから仕方がないことだ。私はデズニ―ランドは嫌いだ、デズニ―アニメを気持ち悪いとしか見えない。あれが大好きという日本人が増加しているのも現実である。田んぼがなくなることに比例して、日本人がアメリカ人化しているのだろう。日本はアメリカの属国化してきた。

自給的農業である。これだけが日本に残る稲作になる。どれほど逆境に追い込まれたとしても、自給的な田んぼだけは間違いなく残る。それだけ田んぼは面白いし、やりがいがある。新しい田んぼ文化として、自給農業は成立する気がする。中山間地の稲作農家が辞めざる得なくなれば、そこを埋めることができるのは、経営的農家ではなく、自給的農家以外にありえない。自給的農家が日本らしい景観と環境を守ることになる。これは20数年前想定した農業の追い込まれてゆくだろう変化である。あしがら農の会を始めた一つの理由でもある。農業が産業として成り立たなくなるなら、自給的に農地を支えなければならない。里地里山の暮らしは急速に失われている。それゆえに、都市近郊の中山間地に新しい自給的農家を作ることだと考えている。

政府は地方創成を次の矢にするらしいが、期待しない方が良い。政治がこういうことを言うときにはすでに、時が過ぎている。とはいえ、政府が本気でやる気があるなら、農地法の改革である。農業が自給的になるという予測を基本に踏まえ、自給しようと考える人が、そこに住んで、自給農業ができるように変えなければならない。もちろん一方に大規模農業が成立する条件も作らなければならないだろう。両極に振れる前提で農地法を変える必要がある。中山間地の農地は環境保全のための土地として公有地化する。そして、自給農家に利用してもらう。公有化には難しい課題はあるだろうが、このままでは放棄され、荒れ地化してゆくだけになる。確かに地方地方に農地を守る活動は存在するが、小さな農家が農地を守るという発想から、自給的農家が日本の自然を守る活動を担うという発想に変えてゆく必要があるだろう。

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