日本礼賛モノの理由

   

前にも一度日本礼賛テレビ番組の気持ち悪さを、書いた事がある。何度も書くほどのものでもないとも思うのだが、その後、その傾向はさらに強まっているのが気になる。日本的である事と、日本礼賛とは少し違うと思う。背景にある心理は日本の危うさからくる、自信喪失ではないか。アベノミックスで株価が上がり、政府は有頂天になっているようだ。所が一方にそうは安心できる状態でない。大変な危機が迫っているという予感が広がっているのだろう。フクシマ原発事故以来、日本人から不安な気分は消える事がない。あの計画停電という何とも言えないばかばかしい政策で、街が真っ暗だった事を思い出す。あの頃良く信号のない茅ヶ崎の海岸通りを車で走った。別に暴走していた訳ではない。ともかく暗く、月明かりだけが目立った町。微熱が続き、寝汗をかいている様な、血走った気分だった。黒い海に割れる月明かりが、恐怖心を抱かせる。この先日本は何処に行くのだろうか。立ち直る事は出来るのだろうか。海に広がる不安。あの時の反動の様なものが、日本礼賛モノにはある。

あの茫然とするしかなかった、放射能汚染。人が住めなくなるような地域が今もある。確かに日本の国土は素晴らしいと思うが、その国土を放射能で汚してしまうと言うような、取り返しのつかない罪を犯してしまった。それは東電が悪いとか、国の原発推進政策が悪い、というのもあるけれど、この国に生きるすべての人が悪かったという、暗い思い。日本人すべてに問題があったから、フクシマ事故が起きた。日本人は敗戦で懺悔し、原発事故でまた懺悔するしかなかった。日本の危うい高度成長の結論が原発事故だったという、情けなさ。そういうもろもろを誰だって忘れたい。そこに滑り込んだのが、日本礼賛モノではないか。少し前に、まさか日本人が住んでいるなんて想像もできないという所にいる日本人という番組があった。これなんかは、まだまだ、何とかなるかもしれないと言う事ではなかったか。アマゾンの他民族と遭遇した事のない少数民族を、発見したら、フランス人が紛れていたという番組もあった。脱出願望。

民主党政権の失敗とその後の体たらくで、政治という物への期待が、完全に失われた。自民党がまともとは思わないが、変わるべき政治など無い。政治への諦めが広がらざるえない。自民党は、沖縄の民意を無視して、辺野古が由一の選択だと、一つ覚えのように繰り返し述べる。何故他の選択肢がないのか、国民的議論に持ってゆくのが、政治の役割である。辺野古以外にないという事を、国民の頭に刷り込もうとしているだけだ。国の方向に選択肢などいくらでもある。幾らでもあるが、もっと困難だという意味だろう。政治に選択肢の無い訳がない。沖縄以外に移設するには、反対が強いという事にすぎない。何処かの無人島に行くことは、アメリカ軍が受け入れないのだ。選択肢などいくらでもある。幾らでもあるにもかかわらず、辺野古以外にないというのは、安倍政権の選択なのだ。あの民主党の国外、せめて沖縄以外にという、当然の主張が進められなかったのだ。その能力がなかった。

すご技というNHKの良い番組がある。その回は真球を作るという番組だった。ドイツのベアリングの大企業と、日本小さな町工場の若い職人兄弟が、競うという番組であった。そして、職人兄弟の手磨き技が勝利するのだ。確かにすご技に大感動とことだ。親戚にレンズ磨き職人がいたので、球面磨きを少し理解できたのだが、金属とガラスで競うという条件の違いには触れない。日本のレンズ磨きのすごい精度には歴史がある。ドイツの真球は鉄球を大量生産して、その中の一番の玉を使うという事だった。手仕事兄弟は一つの球を磨きぬく。この違いの意味は案外に深い。この意味を考えて行く事で番組の奥行きが生まれるのではないか。競う条件を変えれば、違う結果はいくらでも生まれる。番組制作者の意図は、若い職人兄弟の勝利を想定して作っていると考えてもいい。日本の職人技を評価するのは大切なことだ。そのときに、職人技が何故、消滅しかかっているのかの視点に意識が行くように作れば、もっと良い番組になる。

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