日本が植民地化されなかった理由
日本は幸いにも植民地化されなかった。それは江戸時代の鎖国と、その結果の国力の高さの結果だと考えている。明治維新の英雄たちの御蔭というような事ではない。中国が半植民地化されたアヘン戦争が1842年。1853年が黒船来航。明治維新というものを勝者である、薩長の政権の視点から作られた、いわば正史によってだけ理解しようとすれば、本来存在した日本という国の姿を誤解してしまう。そう考えるようになった理由から書く。江戸時代の見直しをしなければ、日本人の事や、日本文化の事は理解できないと考えてきた。その事に気付いたのは、鶏を飼ったからだ。日本鶏というものは、日本人が作り出した鶏である。例えば、尾長鶏や矮鶏や声良鶏どの鶏も独特なもので、世界の鶏の種類に置いても、群を抜いて特徴があり、面白いものである。何故江戸時代にはこういう鶏が誕生したのかと、不思議に思ったのだ。全くの趣味の鶏である。実用性の無い鶏を生み出す、余裕が、百姓のどこから出たのかである。正史では、百姓は搾りあげられてそれどころではないと思い込まされていた。
自給自足を身を持って実験して見た。化石燃料を使わず、山中で5年間で達成した。その体験の結果、人間一人の食料自給は、100坪の土地と、一日1時間の労働で可能という結論が出た。江戸時代の農民が飢餓に苦しみ続けたという正史に、何か不自然を感じ始めたのだ。江戸時代には、明治政府によって作られた貧困像があるのではないかと疑うようになった。江戸時代には浮世絵というものがある。庶民が購入した、版画である。いわゆる幕府のお抱え絵師の琳派の伝統に基づく絵画の様な物とは違い、庶民ものとして、人気がでて売れれば売れるだけ大量に刷るというような作品。版元がいる様な大量生産絵画である。所が今見直してみると、この江戸時代の絵画というものは、やはり独特の文化を形成している。これほどの高い文化を庶民たちが作り出す事が出来たのかという事になる。それは、棟方志功展をパリで見て気付いた事だった。
江戸時代は士農工商の時代であるが、武士の数は10%程度で公務員と考えれば今と同じ比率である。江戸時代は飢餓と百姓一揆の時代では、どうもないらしいという事を考え始めた。明治政府が富国強兵を進めるうえで、国民から、農民から厳しく税を搾り取る。それは江戸時代以上のものである。話しは前段が長くなったが、江戸時代の蓄積というものが膨大に存在したために、日本は植民地化されなかったと考えた方が自然である。西欧の帝国主義は、利益の追求である。利益を上げるために植民地化する。所が日本という国は、交易をすれば利益の出る国であった。江戸時代にそれだけの国内の生産力があった。中国がアヘン戦争で半植民地化されたのは、中国にはイギリスが利益を生み出すような材料がなかったのだ。だから、アヘンを売るほかなかった。列強の植民地政策というものは、材料が無ければ、奴隷として人間を商品化する。そして、安価な労働力を使いプランテーション農業を行い、そこから生産物を吸収しようとする。日本の場合は、日本人と上手く取引をすることが一番利益の上がる道であったのではないか。
植民地にはならなかった日本は後追いの帝国主義の道に向かって、ひたすら歩む事になる。列強に追いつけ追い越せが日本国の目標になる。戦争を繰り返しながら、アジアに権益を広げて行く。その戦争の都度、様々な理由はつけられるが、背景にあるものは日本国が強国にやられてしまうのではないかという不安と、勝たねばならぬと言う競争心であろう。日本が相手国にとって利益の出る国であれば、相手国も日本を占領しようとは思わない。日本が大東亜共栄圏を目指して、戦争に追い込まれて行った流れは、軍拡競争の果てに、経済封鎖で日本は苦しくなり、展望が亡くなる最後の選択だろう。世界各国は違う文化のもとに、出来上がっている。資源的自然条件の違い。国家規模、民族構成、宗教、イデオロギーも様々である。その違う条件の基、産業革命で急速に上がった生産力で競争しようとしたのだ。それがいよいよ切羽詰まって来たというのが、今の世界状況だろう。日本が戦争に巻き込まれない道は、相手国にとって、ありがたい国である事ではないか。