放射能に対するそれぞれの対応
福島原発事故以来、久野の農地にも放射能汚染が広がった。当初は食べてはならないと国が示す基準を越えた作物まで出た。現在の作物の放射能はその頃に比べると、その100分の一前後になった。放射能は予想を越えて300キロ離れた足柄地域までも、汚染で出荷停止を国が決めるほどのレベルに達した。そして、この放射能事故汚染の起きたことから、あしがら農の会でも、今までの生き方を考え直し、新しい方向に変えた人も多数存在する。特に、あしがら農の会に集まった人たちは、「地場・旬・自給」をそれぞれに考えてきたのだから、そのことを正面から向かい合う人には、判断できない状況に至ったはずである。たぶん、農の会を始めて以来、100家族以上の人と出会い、又分かれてきたのだろう。それぞれの生き方の転換点というか、再確認の場に農の会はなっているのだと思う。
私の場合放射能については、ぐずぐず、嫌な思いで判断を拒否している、というのが実態である。土壌が汚染されてしまったという現実は認めたくないし、考えたくもないことだ。そしてそのあいまいな態度に対する多数の人の、様々な抗議のような指摘も受けてきた。しかし、生きてゆくにはあるラインを引くしかないというのが私の、訳のわからない中で出した妥協的態度である。そのラインという物も、科学的な根拠に出来る限り基づくべきだが、内部被ばくの影響に関しては、分らないことばかりなのだから、科学的根拠はない。それぞれが、自分の精一杯の知性と、感性でラインを引くほかないということである。私個人であれば、100ベクレル以上のものは、避ける。こういうことである。はからずも、政府は後から、この数値を出した。日本政府も、ラインを引かなければ日本という国が維持できないという判断だと思う。この考えについては、様々な形で批判があるだろう。
放射能で癌になるのかどうかがわからないのは、タバコでの癌の影響と同じである。人によって違うようだ。友人でもあり、尊敬している先輩でもあるMさんは、がんの専門医なのだが、タバコなど全く関係がないと力説している。人間が生きるということは、平均値では計り知れないものだ。それぞれが判断する以外に道はない。では自身では判断できない小さな子供たちについては、どうかと言えば、タバコは法律で未成年は禁止されている。政府は同様の判断をしなくてはならない。癌に対する感受性は大人と較べて、成長期は5倍と言われている。これもどこまでの根拠か。この5倍も人によって異なる意見があるから、10倍の感受性と考えて、10ベクレルを子供の影響範囲としてラインを引いたらいいと、全く個人的な考えとして考えた。それは、農の会の活動には、子供のいる家庭もあるからだ。しかし、この考えには、批判も当然存在する。それなら会の活動を止める法を選ぶのかという問題である。数値を公表し、親に最終的な判断をしてもらうしかないと考えた。
現状では、すでに作物で、10ベクレルを越えるものはなくなっている。2ベクレルでも検出されるものが、ほとんどない。といっても例外的なものとしてはあり得る。また、翌年にはその半分以下になる。最初考えていた土壌汚染からの推定より、減少の速度速い。最近行った久野の自然卵の測定では、1ベクレルでも検出できなかった。だから、一度10ベクレル以下になれば、もう測定する意味はなくなる。全くやらないというのでなく、やるとしても確認の意味だけである。以上の考えから、小田原のみかんが10ベクレル以下であるにもかかわらず、これを拒否した横浜等の教育委員会の判断は間違えだと考える。科学的な根拠がない、拒絶では足柄地域の農業が成り立たないからである。どれほどわずかであれ、存在する以上食べさせるべきではないという考えは、特殊な個人の考えとしては許される。0ベクレルでなければいけないという、考えを持てば足柄地域でというか、世界で生存できない。