和紙の発色

   

水彩画は何故水彩紙に描くのか。実はこのことには文化の問題にまで及ぶ、民族的傾向まで含んでいる。和紙というものは、中国人から教わり、日本人が磨き上げた一つの文化遺産である。和紙を見て、日本らしいと思うし、和紙と筆と墨から、日本の書画文化が生まれたのだと考える。素晴らしい日本画の伝統は、この和紙というもののレベルの高さに支えられ生まれた。和紙の質の高さというものが絶妙なもので、一言では言い難いものである。多様であり、微妙であり、絶妙。浮世絵から琳派の障壁画まで世界屈指の絵画世界が出現した。制作基盤であり、原因となるのが和紙の存在ある。日本的発色とか、保存性の高さ、筆あたりの良さから、良い筆の出現。日本の書画を奥深く展開できた、一大要素になっている。レンブラントも使ってみたということが、当時のヨーロッパで珍重された和紙ということになっている。当然日本の水彩画を作り出すためには、和紙を使うということを、私も考え実践している。

ところが、2つの理由で、水彩画には、和紙より、フランス、イタリア、イギリス、アメリカ、インドの水彩紙の方が水彩画には勝っている。まず、紙目の問題である。和紙には紙目が無い。それは製造方法から来るものだ。和紙は水槽の中に浮かせたコウゾやミツマタの繊維を、木枠ですくい取り静かにはがして乾かす。この時木枠にある竹の桟が紙に現われる場合はあるが、大きくデコボコになることは好まなかった。和紙が、字を書くことにや、障子に張られて使われるのだから、書きにくいデコボコは要らないし、薄くて丈夫で、光を通すことが大切である。紙の厚さは薄いことを良しとしたために、繊維の折り重なる厚さの効果ということはない。和紙にはにじみの微妙さがある。ところが水彩紙は漉き取ったラグという古綿の繊維を、布で挟みローラーにかけて、水を絞り出し作る。この時に布にある繊維の目が、紙に食い込み紙目を作ることになる。もちろんこの絞る際の布の目は、邪魔になればより細かな布で挟むことが出来た。このことから、ペンで描く目のない紙から、筆で描く場合の紙目の粗いものまで自由にできることになった。

一般に荒い目のものを水彩画では使うことになる。それは色を着色した場合に、紙目の間から、紙が覗いて見えて、その紙の白さが色に輝きを与える効果を生むからである。もう一つは、どうさのかけ方の違いがある。水彩紙は一般にドウサ液に紙ごと浸けこんで、繊維の奥までしみ込ませるため、深く芯までドウサが効いている。つまり、水彩紙で重要なことは、明るい発色が可能なことである。和紙の場合は、刷毛でドウサを塗ることになる。強いドウサを作る場合は重ね塗りである。紙に厚さが無いからである。そのためににじみということが大きな要素になる。水墨などではドウサのない紙で、にじみを生かした筆触が探求される。何故こういう方向に進んだかと言えば、それが日本の自然に培われた、民族的性格だったとしか言えない。ヨーロッパでは、ボタニカルアートで見られるように、より正確な表現が求められる。性格という意味は、機械的、数値化できるような意味での精確さである。一方、日本では幽玄というような、曖昧で心理的な共感で伝えようというような、阿吽の世界となる。これは色に置いても同様で、和紙では正確な色の発色幅は狭い。

和紙と筆触という関係を具体的にいえば、空とか、海とか、雲とか、草原とか、形の自由がきくものが、描きやすい。それは、形に線が引きづられないで済むからだろう。筆跡から、描いた人の人格までたどろうとする、書の文化の影響がある。にじみや筆触に反応する共通理解と、その奥行きの上に、成り立つ日本的な筆触の絵画。日本の油彩画の成立過程でも、西洋絵画とは異なる点はこの点である。筆触の文化に色が出てくれば、色の意味は曖昧になる。しかし、色という世界多様な意味の充実が、絵画の本質でもある。この兼ね合いこそ絵画である。どのように筆触と色とを両立させるか。この時に和紙の持つ含みこむ奥行きが、逆にあいまいな限界を生む気がしている。より深く精緻に思考するということを、和紙が拒んでいる。この部分が水彩画の今後の可能性ではないか。

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