皇后さまと五日市憲法草案
皇后陛下は79歳を迎えられたという。ミッチーブームというものが子供のころあった。美智子妃がすごい人気で、その日々の行動までもが注目された時期があった。馬車に乗った結婚式のパレードの姿は、テレビで放映され今でも記憶に残っている。随分と時間が経過し79歳を迎えられたことに驚き、自分も年をとったのだと改めて思う。誕生日に際し、五日市憲法草案に言及したということは、大きな意味を持つと考えられる。皇后は類まれに聡明な方である。だからこそ、初めて民間出身者がお妃に選ばれたのだろう。そしてその役割を、静かに果たされてきた。この時期に明治初期の民衆憲法を発言する背景は、深いと言わざる得ない。明治の自由民権運動は小田原にも及んでいる。五日市のある西多摩地区には大きな運動が存在した。江戸という世界有数の消費地に対して、エネルギー供給地として、関東周辺の山林を背景にした地区は大きな経済が存在した。五日市憲法草案は明治14年に草案されたものだ。
以下皇后陛下の誕生日に際してのお言葉
五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治二十二年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、二百四条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四十数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た十九世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
憲法を国民全体で大いに議論すべきだ。こういう考えを言われたのだと思う。上からの憲法ではなく、庶民の議論をもとに作り上げられる憲法の大切さ。つまり、96条の改定のような姑息な、足をすくうような方法ではなく。憲法を改定するのであれば、あらゆる立場の人間が、討議を重ねて、十二分に日本の将来を考えなければならない。こういう実にまっとうな正面からのお言葉ではないか。私は今回の言葉を、人間皇后としての、日本人に対する遺言のように受け止める。この後、亡くなられた、先達の名前を次々に挙げられているのは、そういう気持ちを意味している。それゆえに、この言葉を政治的に利用することは在っては成らない。日本人一人ひとりが深く心の底に受け止め、考えてゆく必要がある。ということではないだろうか。人権がないがしろにされた江戸時代という考え方は、一面的な見方だと思う。大切にしなければならない人権とは何を意味するのか。
明治の自由民権運動が、明治帝国主義によって押さえつけられた歴史は、明治という富国強兵の時代の在り方を表している。むしろ江戸時代にあった村社会の中にある人権思想が、明治政府の帝国主義的願望によって、押さえつけられたのだ。江戸時代が封建的で、個人の人権が無視された時代という、イメージは明治政府によって、作り出された面が強い。江戸時代の村には、日本的な人権の意味があった。儒教的とも、仏教的ともいえる、人間主義は日本になかった訳ではない。だからこそ、若いごく普通の庶民があつまり憲法の草案の作成まで、実現しているのだ。明治13年に草案が練り上げられていたということは、当然江戸時代に育った人たちだ。明治維新の日本人の姿を含め、日本の稲作文化から生まれた共同体と、その中にどういう人権意識が育っていたのか。考えてみる価値は高い。
現代の人権問題であれば、お金の為に人間を失っては成らないというのが、アベノミックスに対する気持ちである。競争に勝つためには、能力主義が重視される。能力主義と人権の関係を考えなければならない。五日市憲法をはじめとする、市民発案の憲法草案は明治憲法には生かされることはなかった。その後の富国強兵一辺倒の時代に突入する。日本帝国の敗戦への歴史である。この教訓を生かし、世界に対して本当の意味の、軍事力以外の積極的平和主義を打ち出す必要がある。競争による人間の成長ではなく、自己革新により自分を深める努力が出来ないかではないだろうか。他人を押しのけ、敗者を作る人権ではなく。それぞれが自分の能力を生かすことのできる人間への成長へ、努力をしてゆく世界観。能力主義をどう乗り越えるかが、人権の確立への課題だ。