平和について
ピースカフェの仲間のタケさんのブログに、平和についてとても深い文章が書かれていた。平和とはなにか。読んでいて、改めて平和について考えていた。以前、あなたは誰ですか。という質問をして歩くドキュメントを見た。明確に答えられるのは、子供だけだった。舟原小学校3年3組、笹村出。大人はダラダラと、人生を語り始める。人間は自分というものに至るために生きているにもかかわらず、自分を見つけられないものだということに、気付く。あなたは自分が望む自分に成れましたか。アメリカ人のこういう質問も聞いたことがある。ドキッとした。アメリカ人も多様であるということに驚く。子供に平和とは何かを聞くと、戦争をしていない状態と答える子供が多くいると聞いたことがある。何かを把握するために、そうでないものを連想する。確かに戦争をしているのは平和ではない。
一方に、食べるものもなくて飢え死にするような状態も平和とは言えないだろう。平等でない社会も平和ではない。武力で身構えた社会も平和とは言えない。現代日本の社会は、平和な社会と言っていいのだろう。この平和を続けてこれたのは、戦後の経済発展と、アメリカの武力という現実。それには、戦争に敗北し、武装を解除し、これからは平和国家として生きるという世界へのメッセージでもあっただろう。様々な幸運にも恵まれて、何とか戦争をせずにここまでやってこれた。しかし、戦争に敗れたために、無理やり平和国家にさせられたことには、受け入れがたいとする多くの人が存在する。当然と言えば当然すぎることでもある。今までは経済第一のあきんどとして、腰を低くかがめてやってきた訳だが、それもいつまで続くものでもないということもわかる。
日本人の誇りのようなものを失ってしまったのではないか。中国や、韓国に、これだけはあると誇りの根底にしていた、経済に於いて出し抜かれるような現実を前にして、日本はこのままで大丈夫かという不安が高まった。そこに原発の対応しきれないような大事故。このことは、経済にのまれていた日本人に大きな衝撃を与えた。このままでいいのだろうか。経済のためなら少々のリスクは我慢するしかない。という本音と。もう一度事故があれば、日本は終わってしまうだろうという不安。そして、日本はどんな国を目指し、どこへ行けばいいのかという、大切なものが問われ始めているのだと思う。あの大震災以来、このままという訳にはいかないという予感が、多くの人の心溜まり始めている気がする。それが、憲法改定論議にもつながっているのだろう。もう一度、武力によって、世界に存在を示す国になりたいという人がいるのも、当然のことだろう。
平和というものは、解放されたものだから、無防備で平気でいられる強さが必要である。最も難しい国の在り方だろう。しかし、日本は幸運にも平和憲法があり、綱渡りしながらも、少しインチキの武装もしながらも、何とか直接の戦争をしないで来れた。無防備の強さというものもあること。武力競争には、きりがないこと。どこの国でも核武装をするようになれば、少々の武力には意味がないこと。武力ではない平和を保つ方法を模索する以外、道がないこと。これは武装競争するより辛い選択なのかもしれない。よほど強い心がなければ継続できないだろう。普通の国になるという言い方で、武装をしようという主張がある。確かに、大多数の国が武装している状態である。世界は平和とは言えない訳だ。日本は世界の希望なのではないか。日本が武装するということは、世界を諦めなければならないということになるのではないか。日本がアメリカの軍事力という傘の下で、相当の自衛隊を持ちながらであるが、このインチキくさい状況こそ、戦後の日本人の選択した、矛盾に満ちた、賢い平和の選択だったのだろう。
昨日の自給作業:大豆の草取り3時間 累計時間:6時間