除草剤を使わない稲作りメール
除草剤を使わない稲作りの山下正範さんの言葉である。
田中さんのお便りを拝見しなながら、みんなそれぞれぞれやなあと思ったことでした。
最近ね、しみじみ思うのは、井原豊さんが「百姓は、みんなそれぞれひとりひとり、自分が先生なんです」と言った言葉です。
久しぶりにどきっとしたメールだった。山下さんという、昔、農文協に勤務されていた方が、岡山の方で実家の農家の後を継いで農家になった。稲作をされている。この方が運営されているメール便に「除草剤を使わない稲作り」というものがある。パソコンを開くとほぼ毎日メールが来ている。そうだ私もたまにはメールしなければと思いながら、読ませていただく。私の田んぼで参考になることはほとんどないのだが、色々あるな、仲間がいるなと元気が出る。全く逆さまなことが、時間をおいて書かれている。確かに、どちらも実体験に基づく意見だから、この違いが貴重である。よくよく聞いたら、怪我をしたのでやり方を変えたとか。事情で、方法が変化して行く。その中に、ああこれは私にも役立つ話だなということがある。私がメールをめったに出せないでいるのは、手植えで、苗代で苗を作るという特殊な方法のためだ。専業で広くやられている方の参考にもならないと思ってしまい気が引けるからである。
共通にある思いは、草に負けるような農業をしてはならないということ。除草剤を使うということは、草に負けた姿ではないか。除草剤を使わない農業となれば、自ずと各々の能力見あった面積があるということにならないだろうか。誰だって、1反ぐらいなら、草に苦労することはない。次善の策として、除草機械がある。機械の手を借りて、自分の能力を広げる。しゃべる1本だってすごい機械だ。もしシャベルがなければ、板でも削って木鋤(こすき)のようなものを作るのだろうか。金属があるということ自体がすごい。動力を使うような機械をどこまで使うかである。私は乗用耕運機を使っている。歳をとったからいいか、というような気持ちで使っている。先日、子ノ神田んぼで、稲刈りを手でやっていると言っていた。農の会には、バインダーがある。それなのに手で刈るということには、農に対する自分たちの想いがあるのだろう。よほどのことがなければ、稲刈りは手でやれない。以前1反手で稲を縛ったら、手から血が出た。
1反稲作をやっていたのでは、農家としてはやっていけない。経営の合理性からいえば、除草剤なしといえども、4ヘクタールぐらいが最低の面積となるだろう。4ヘクタール草を抑える技術となると、相当のものであろう。それを考えると私が考えている方法は、意味をなさない。それでメールを出さないことになる。腹の底にあることを思いきって書いてしまえば、1反が本来の稲作の面積だ。1反の田んぼで、昔の大家族が、米、麦、味噌、醤油と自給できたのだ。それ以上やるということ自体が、業というか、欲のようなものではないか。だから、1反の田んぼが、未来永劫循環して行く姿を作り出すことの方が重要ではないか。そう考え、そういう技術を探って来た。1反の田植えなら、手植えで一人でも可能である。機械など要らないから燃料も使わない。今の私でも、3日あれば植えられるつもりである。しかし、3反の田んぼを10人でやれば、2日かかるがとても楽しい。
田んぼをやることがリクレーションになる場合もある。スポーツジムだと言われた人もいた。ダイエットになるからと言っていた若い女性もいた。一定の範囲であれば、仕事という意識でなく、本気の遊びになる。釣り好きと、漁師の違いのようなものだ。釣り好きがいくら釣りが上手でも、漁師に意見を言うのは違うと思う。田んぼにいくら本気で、専業農家の人とは違う。もしかしたらこっちのやり方しか生き残れないのかもしれないと考えている。農業は業としては、ますます追い詰められる。稲作はどこまでいっても、まったくの国際競争力の下では生き残れない。それなら、伝統農業として、江戸時代から受け継がれた1反田んぼの在り方を模索するのも面白のではないかと思う。伝統的田んぼは知恵の宝庫である。そして自分だけが、自分の先生なのだ。