裁判員制度

   

強盗殺人罪などに問われた被告に死刑を言い渡した今年3月の福島地裁郡山支部の裁判員裁判で裁判員を務めた60代女性が「急性ストレス障害(ASD)」と診断された問題で、女性が7日午前、慰謝料など200万円の国家賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。裁判員制度を「憲法違反」と主張、裁判員法を成立させた国会の責任も追及する。2009年5月に裁判員制度が始まって以降、裁判員経験者が制度の是非を問う初の裁判となった。女性は、新たな苦痛が伴う提訴にためらったが、制度が国民のためになっていないと思い決断した」と語った。毎日新聞

裁判員制度は良くない制度である。早急に廃止すべきだ。こういう被害がいつ起こるかと思っていた。裁判員制度は日本には適当でない制度だと思う。裁判は裁判官という訓練を経た専門家が行うべき制度である。裁判員は本来見たくないような画像と真剣に向き合わなければならない。殺害現場における、殺害状況の細部まで、判断を要求される。もう一つの不安は、絶対の真実を判断するなど、出来るわけがない。本人が自白していたとしても、証拠がたくさんあったとしても、人を裁く判断など私に出来るわけがない。心ならずも、死刑判決を下すことに加われば、苦しむことになるだろう。私は死刑は必要だと考えているものだが、それでも本当の終身刑があれば、被告が選択が出来るようにしたらどうかとぐらいは思っている。終身刑の方が残酷な刑罰にも思えるからだ。私は拒否することに決めている。あらゆる理由を付けても、嘘をついても拒否したい。こんなことで嫌な思いをしたくないので、当たらないように祈っている。

アメリカやイギリスの裁判の詳細は知らないが、テレビドラマによると、陪審制度というようだ。裁判官とは別に有罪、無罪だけを判断する。量刑については、専門家の裁判官が判断する。しかし、素人が判断するために、弁護士の演出家的能力が問われるようなことに、ドラマではなっている。実際にお金持ちは良い弁護士を雇い、無罪になると言われているらしい。いずれにしてもあまりにひどい判断と裁判官が考える場合もあるだろう。後で覆ることもあるのだろうか。実際にアメリカでは無罪の人間が死刑にされてしまった事件がある。後で真犯人が出てきたのだ。こういう冤罪事例が何件もあるらしい。NHKによると124人という。陪審員は責任を感じるに違いない。生涯悩まされる人もいるに違いない。そういうことに頭を悩まされること自体が嫌だし、そんなことを国民の義務にしてしまうというのもひどい話だ。

アメリカの陪審員制度は、アメリカ型民主主義と結びついている。教育委員会や農業委員会の制度である。日本では民主的に委員が立候補し、選ばれるような状況には根付居ていない。形式民主主義。学校教育を地域社会の責任と管理下に置くという発想は良いが、実際には教育委員が、各地域の学校と結びついた形で、活動するようなことになはならなかった。裁判員制度もそうだと思う。一般住民が犯罪者と向き合い、判断するということで、司法を民主化するというか、司法を別世界から一般社会へ持ってこようということなのだろう。しかし、そのようなことには日本ではならない。国民の義務となれば、命ぜられれば断りにくいが、司法がこれで変わったとは、到底思えない。司法制度での問題は、検察の偏向をどのように防ぐかである。そして検察審査会である。小澤氏を支持する訳ではないが、ああした形での政治家の足のすくい方は良くない。裁判で無罪になってすら、報道機関は犯罪者だがごまかしたごとくの扱いである。すべては検察の筋書き通りである。

裁判をされている犯罪者を見たくない。悪い気にあたりたくない。こういう思いもある。元気のない人と接して居ると、元気を吸い取られる。悪い人と接して居ると、悪人の発する気に影響され、不愉快になる。良い気を育てるには、元気な人と接して居ることだ。確かに生きていれば、とんでもない人と出っくわすこともある。出来る限り静かに、関わらないようにする。屋根を塗り替えませんかというような、セールスに押し掛けてこられ、一日絵が描けなくなるということがある。嫌な思いをしただけで、絵を描くことはできない。自分の中の感じようとする避雷針のようなものが、乱れてしまい、機能が戻らない。情けないことだが、そういう能力しかないと思って、嫌な気を発するような場面は出来る限り避けるようにしている。

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