自給農業の収量

   

自給農業を進める上で、協働で行った方がいいものと、個人でやった方がいいものとがある。それは一般の農業の技術と自給農業の技術や農法とは、違ってくるということを意味している。自給農業の場合、せいぜい土日ぐらいでやりきらなければならない。年間の労働時間が365時間以下にしなければならないと考えている。しかも、多種多様な作物を作る必要があるので、農業ならやるべき作業でやらないで済ます作業もある。また同時に普通の農業ではやらないようなことも、手をかけてやることもある。そうしたあれこれの結果、収量は周辺農家の人より、多くなければならないと考えている。専業農家は自分の責任で済むのだと思う。しかし、市民の行う自給農業である。いい加減な気持であっては、申し訳のないことだと思うからである。色々の考え方はあるが、収量でしっかり取るということが第一である。もう一つの特徴は、長期間採れるということがある。そのこともあとで触れる。

笑いながら農業をやりたいが、ふざけてやっているというのでなく、楽しんでやっているということにならないといけない。自給農業の中には生命力があるとか、病気を治すとか、主義でやる人もいる。有機農業でやるのは当然のことではあるとしても。そのうえで、周辺の人より多く収穫量があるということが条件だと思っている。良い作物栽培が、収量としての結果を残せないということは、真剣味が足りないということである。そのために、自給農業技術の向上は総合的な努力をしてゆかなければならない。共同で行う作物は、お米、小麦、大豆、お茶、たぶん、玉ネギなど保存可能なものと考えている。たいていの野菜類は個人的に作った方が効率がいい。つまり食べることのできる野菜を長く採るということになる。野菜の自給的農法の実際の方法は一人ひとりかなり異なるものになるはずだ。それは、段ボールコンポストの普及活動をして、各家庭でやりやすい方法は違っているという結果になった。

人に伝えられる自給農業は、技術に至る考え方の方である。そして私のやり方はその一例である。それは養鶏の技術もそうであった。だから、40歳の時の養鶏技術と、60歳の時の養鶏技術は違っている。たぶん80歳のときには80歳の時のものがあるのだろう。自分が確立した方法も常にも固執せず、今の自分にとってふさわしい方法を実行してゆくこと。あくまでそこに至る考え方が大切である。そのうえで、各自が考えてゆくことになる。マチスの自伝が絵のハウツウ本でなく、絵画論であるように、農業の本もそれぞれの人間に基づいている。段ボールコンポストの中にも、宇宙の総合は見えてくる。大上段なことでなく、すべてのことが自分の命を支えてくれていることに気づく。そうした暮らしに気づくことが、自給農業なのだと思う。私の場合、作物を作らなければ、絵を描くことはできない。絵を描く内的な材料は作物を作るということから、生まれている。

現在作っている作物の種類は、50種類ほどである。少しづつ、栽培方法まとめるようにメモを書き込むようにしている。2年後にはまとめる計画である。収穫を求めることは卑しいことではない。大切な生きることの基本的姿勢である。良い作物が収量が少ないなどということはあり得ないことだ。作物のことを知って、本気で接していて、収穫が少ない理由などないのである。自分の努力不足を言葉でごまかしてはならないと考えている。すべてはその上でのことである。養鶏でいえば、60%以上の産卵数である。そのうえで、生命力の強い卵である。しかし、それは自給農業だからできることである。これで生計を立てようなど考えれば、経営の合理性のような、命をないがしろにするようなことが起こらざる得ない。自給農業は利益を求めずの方が分かりやすい。

昨日の自給作業:プランターと袋栽培の準備1時間 累計時間:6時間

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