自給可能年齢
体力衰退の老化と言うことは、何歳から始まるのだろうか。私の場合63歳に成って、体力が落ちて来たという自覚がある。自給農業には深刻なことである。今まで出来たことが同じ時間ではできない。すぐ休みたくなる。仕方が無いとするしかないが、やっちまえとか。終わりまでやろうと言うことは無理がたたるようにもなってきた。高校まで陸上部だった。この事が大学の頃登山しても、それなりの耐久出来る体力の強さがあった。テントを担いで1週間位の登山が出来た。サッカーが好きで、他所の学部の授業にもぐずりこんでまで、毎日やらないと気が済まない位だった。加藤文太郎の影響で日ごろの暮らしの中で体力をつけると考えていた。とにかく3歩以上は走ると言うのが、信条でいつも走っている奴だった。そう言う事で、体力の継続力にはそれなりの自信あった。それが昨年あたりから、少し落ちて、今年はいよいよだ。
力仕事ではすぐ息が上がると言う事がある。力自体も少しづつ落ちている。今のところ、農作業に困ると言うほどではないが、始めるのに、億劫に感じることが増えた。特に暑い頃は動きたくなかった。もちろん無理に動く気も無い。やりたくもないのにやることは無い。すべてが好きでやっているのだから、やりたいと思わない限りやらない。そうしたら夏の間は、農作業が減った。その範囲でそれなりの自給を考えている。体力任せをしない自給農業である。機械を使う所は使う。トラックタ―を購入したのもその一つである。自給を止めるより、機械を使う方がましだと考えている。山北で30代で開墾をしていたころは、シャベルだけで山の斜面を切り開き田んぼまで作った。そんな風に体力のぎりぎりまで使いたかった。それが面白かった。今そんなことが出来る訳がない。それでも、一日2時間位の農作業はできる。やった方がいいと思っている。自給もできなくなるのは、あと10年くらいか。
犬の散歩が一時間ぐらいかかるのだが、自分の為に散歩をするというようなことが出来ない性格である。犬を散歩させることが、自分の運動にもなると言うのあたりが良い。農作業も食べるものが出来ると言う事と、自然と言うものを知ると言う事の両方がある。身体で自然を受け止めると言うような感じ。種を蒔き芽が出る。これは自然の摂理である。小麦の播種を11月11日にするか、18日にするかは、違う。まるで同じこともあるし、全く異なることもある。許容範囲のようなものもある。この感じを身体で受け止めることが出来ればと思う。何故だかわからないが、今年はやけに身体が種まきを急がせた。そう言う事に従って間違いが無いというようでありたい。冬に向かう時期1週間種まきが遅れることは、2週間発芽が遅れると言う事がある。間違ってばかりだけど、そうしたことを気お付けているのが、面白いという事だ。歳をとって体力は衰えたが、こうした蓄積だけは増えたというようでありたい。
体力は63歳にして落ちた。目は悪くなった。忘れっぽくなった。頭がどのくらい衰えたかは、自覚は無いが、多分相当なのだろう。不思議とそれを補う何かが、多分経験と言うようなものなのだろうか。いまのところこれで何とかしのいでいる。その結果、20年前よりは、田んぼではお米が多く採れる。今年開墾した田んぼが、山北で開墾した時より、50%収穫が多く31キロだった。面積は同じなのだが、知識や感じる量が20年分増えたということだろう。大豆も少しづつ方法が見えてきて以前よりは採れる。もちろんこれは耕作法の習得であり、体力勝負ではない。来年大豆を山の畑で作ることが、とても興味深い。小麦と野菜全般の作り方は研究課題である。最近はプランター作りに力を入れている。体力の衰退に合わせて、自給向きな手法の開発である。
昨日の自給作業:竹林の片づけ3時間 累計時間:3時間