ノーベル文学賞は中国人作家

   

日本では村上春樹氏が受賞すると言う事で、期待と言うか騒ぎに成っていたので、気の抜けた空気。中国人文学者が受賞したという事で、報道では少しがっかりした感じだ。こういう姿でも日本と言う国が井の中の蛙であるという事が見える。日本の存在と言うものは、世界においては日本人が考えているようなものではない。中国の方が今は重視すべき国である。ノーベル賞が注目されると言う辺りに、選考委員の関心はあるのかもしれない。川端康成氏が受賞した時に、全く驚いた。ノーベル賞を頂くような文学とは、こういうものを指すのかとまあがっかりした。国際ペンクラブとか、日本と言う伝統ある文学の国をいつまでも無視できないとか、色々言われた。正直村上春樹氏の文学も私には、もう一つ理解が出来ない。イスラエル文学賞の時の受賞記念講演が素晴らしいとは思った。同時に、ああした政治的な発言が受賞を逃す事に成っているのかもしれないとも思った。ようするに世界の文学者の中からどの人が一番すごいなど、言えるものではない。

そもそも、平和賞と文学賞は、その選考基準の意味が分からない。さらに、美術賞と言うのが無いというのも不自然である。文学だけ特別扱いと言う意味はどこにあるのだろう。絵画や音楽は芸術で、文学はどこか違う。大学でも文学だけは、かなりの大学に文学部と言う学部がある。国文科と言うものとは別に、英文科、仏文科とか、独文科、露文科と言うものまであって、結構研究されているらしい。絵画や音楽は芸術大学と言う、特殊な大学にあるだけである。芸術分野の中でのこの違いはなんなのだろうかと思う。ある程度分かる美術界での賞でいえば、美術での受賞はその作家が美術界で傑出しているからということはない。ある観点で見れば優れているという事にすぎない。大きな枠から見れば、経済と繋がっている。高く売れる美術が良い美術と言う、芸術商品化時代である。

今年も平和賞が選ばれた。今年の平和賞はEUであった。たしかにEUは平和賞に値する。国家と言うものをどう越えて行けるかは、人類が試されている。EUをこの時点で選択する姿勢に、何か一貫したものを感ずる。いまEUを励まさなければならない状況があるということ。東アジア共同体と言うようなことが将来あるのだろうか。平和賞は日本人では佐藤栄作氏ただ一人である。平和憲法を作ったとか、非核原則を順守したとか、そう言う事ではない。むしろ、日本の再軍備を進めた総理大臣である。沖縄への核持ち込みも容認していた。一応、受賞理由は外交交渉で沖縄返還を実現した事、そして日本の非核三原則政策を打ち立てた事となっている。佐藤栄作氏は本質的には、核武装論者であった。その相棒ともいえるアメリカのキッシンジャー氏が平和賞をもらったぐらいだから、ノーベル平和賞の意味は、佐藤氏も講演で反核を発言するつもりだったらしい。日本の平和憲法や、非核3原則の意味を後押ししようということだろう。

科学者がもらうノーベル賞は分かりやすくて良い。それに付随したようにある分かりにくい選考の、文学賞と平和賞はむしろ世界への影響力が大きい。ソルジェニツィンの文学賞受賞など、ロシアの変化に多大な影響を与えた。受賞して発言が注目され、結局国外追放に成り、その後民主化するロシアに帰国する。学生時代に読んで衝撃を受けた。ドフトエフスキーのようなロシアの文学的伝統も感じたし、現政権に対する抗議の姿勢もすざましいと思った。文学賞の御蔭で知った南米の作家もすごい。コロンビアのガルシア·マルケス氏、ペルーのバルガス・リョサ氏、独特の未知の世界の感触がある。ちょっと衝撃的であった。申し訳ないが、村上春樹氏より世界観が深い。読んだことも無いから、何とも判断は出来ないが、今回の中国の作家莫言氏「赤いコウリャン」は映画化されたので名前は知っている。民主化の後押しと言う事もあるのかもしれない。

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