公的教育支出
日本の公教育支出は、先進国として普通のレベルである。産経新聞にOECD加盟国で3年連続で最下位と書かれていた。よく分からないが、情報の一部だけを出しているのだと思う。子供の人口比率は比較したのだろうか。2009年のデーターだから、高校無償化が入っていない。これは社会保障と、税負担の全体を見なければならない。経済成長が終わりを示している中、社会がどこにバランスを置けば、安定するかである。それは、老齢化社会の問題でもある。生活保護費の問題でも書いたことだが、困っているから単純に補助すると言う事が出来ない社会が始まっている。支出するということは、どこかを削減することに成る社会。大学に進学した人が、貧困の為に中途で学業を断念する。これはいかにも無残なことである。しかし、当たり前のことでもある。私は大学は稼ぎながら行った。別段珍しいことでは無かった。
確かに学びたいものが、学びたいだけ学べる環境は素晴らしい。医療の無償化と言う事も同じだ。、むかし、病気になりそうなら、北の方で病気に成れ、とヨーロッパのバックパッカー達は話していた。どこまで可能になるかである。当然ながら限界はある。公教育の支出の背景にあるものは、近代的産業の要員としての教育である。だから、自給の技術など教えない。工場労働者に成る大量の人員が必要な社会だった。しかし、給与が高くなれば、今度は単純労働から、高度化した技術者への教育の変貌。さらに、先端技術の開発要員。公教育は産業の要請にこたえる形で充実されてきた。特に競争が激化する成長社会では、教育は競争に勝ち抜くための条件として位置づけられる。国内にそうしたキャリアに値する教育機関が無ければ、海外に留学しても競争に打ち勝とうと言う事に成る。こうして、教育によってますます格差が拡大して行く社会。そうした大学教育に税金が支出される意味はあるのだろうか。
もう一度教育の意味を考え直す事ではないか。職業による経済格差のない社会が実現していれば、人間として、やりたい事を発見して、その実現を目指して生きてゆくことに成る。もし農業の中にやりたいことがあるなら、現在の大学へ行くことは殆ど意味が無い。まず農作業をしてみることからだろう。そして、必要な学問があれば、それから学べばいい。小中学校の公教育が目的とすべきことは、何が好きなのかを発見する教育である。「子供の仕事は好きなことを見つけることだ。」好きなことも無いのに本当の努力は出来ない。無味乾燥な受験の為の学習を行うことは、忍耐力は付けるかもしれないが、好きなことをやり尽くすという人間の素晴らしさから離れてゆく。好きなこととは、実は難しい。そのことも好きなことをやり尽くして見ている内に分かってくる。私は絵を描くことが好きなのだが、63歳まで描いてきて、やっぱり好きなんだなあー、と言う事を知ったぐらいだ。
公教育が高校までの無償化を実現した。もう十分である。大学は奨学金制度で行けばいい。その方が、好きなことが見つかる。就職の為の大学であるなら、公的負担の必要などまったくない。現在公教育においてイジメ問題が深刻化している。まさに、教育の意味が見つからなくなっているからだ。格差社会の中で、競争に勝ち抜くための教育。ホリエモンドリームを勝ち取るための教育。これでは、ストレスが増加するのは当たり前のことだ。農業においても、世界の農産物市場で勝ち抜くための生産と言う事が、当然のごとく言われる。そしてそういう方向に補助金が集中し、今までの普通の農家の経営はコスト的に対抗できなくなる。果たして子供たちが、農作物に愛情を注いで暮らしてゆくような、農業の夢を持てるだろうか。教育は夢を育てる人間を育てているだろうか。
昨日の自給作業:稲刈り4時間 累計時間:15時間