ロンドンオリンピック
素晴らしいオリンピックだった。日本選手の姿がくっきりとしていて、好感が持てた。好きなことに集中している人たちは、何とも素晴らしい。特に、打算が入り込むことも無い種目の選手は、すごい。ただ好きだからひたすらやるという人たちの、素晴らしさ、清々しさは心を打つものがあった。さらに、みんなでやる競技は、一人の時より力を出せるという、人間の可能性を感じた。個人種目であってもニチニチの練習は一人ではできない。仲間がいるからつらい練習も出来た。多くの人のサポートの御蔭だと、どの選手も語っていた。メダルを取れた人も、運がなく取れなかった人も、本当の努力はその人を高めたに違いない。そうした人間としての高い精神が溢れ出ていることが、伝わってきて嬉しくなった。日本の選手は日常の於かれた条件は、外国の選手より厳しいのかもしれない。充分の施設も無いのかもしれない。しかし、そうした条件の中でも、これだけの活躍をしてくれたことが素晴らしい。
上村春樹選手団長は競技半ばで、記者会見をして敗北宣言をした。これからやる選手はがっかりしたことだろう。上村講道館館長は述べている。柔道の目的は、柔道修行を通して身体精神を鍛錬修養することで「己を完成し世を補益すること」、つまり「柔道修行を通した人づくり」です。この本音と、建前の乖離が、柔道の連続金メダリストの犯罪を生んだのではないか。何の支援も受けない、地方予選に出ることもできない、スポーツ選手でも人間を磨いている人も無限にいる。東京オリンピックを誘致するので、選手強化をしろ。こういうことになる位なら、金メダルなどいらない。柔道競技に出た選手も、団長に比べて選手は立派だった。金メダルを取れなかったかもしれないが、世界選手権の流れからみれば、良くやったと言っても良い結果だ。相撲を考えてみたら、上位陣は半分以上が外国人である。どのスポーツの目的も人づくりである。その点、日本選手は立派な姿だった。
素晴らしいオリンピックだった。17日間。注目し続けた。有難いものを見せてもらった。プレッシャーに打ち勝つ見事さ。プレッシャーなど初めからない人もいる。そう言っていた内村選手もまさかの失敗をして、人間らしい姿を見せた。それをはねのけて個人戦では力を出した。しかし、押しつぶされそうになりながら頑張っている姿こそ、胸を打つものがある。絶体絶命においての逆転術。本命の選手より、挑戦者は力を発揮する。オリンピックの魅力はプレッシャーに立つ人間の姿の魅力なのかもしれない。人間がギリギリのところで、どのように打ち勝つか、あるいは押しつぶされてしまうのか。スポーツと言うものは、戦いであると同時に、人間修養であることが、むき出しになる。勝ち負けを越えて多くの人が、学んだのだろう。北島選手は「金メダル以上のものをもらった。」と語っていた。オリンピックに政治主張を持ち込む、韓国サッカー選手の未熟さを反省しなければならない。同じことでメダルの数を争う、政治的な国威発揚は、時代遅れの思想だ。
十二分にスポーツをやれる環境を整える。これは、エリート運動選手だけの問題ではない。国民等しく全体のことだ。オリンピックにない種目も、同様である。スポーツをやるということは、各々自身の問題である。競技者が引退後どのような道が開かれているか。海外協力隊から帰り、再就職が難しいと聞いたことがある。日本の旗を掲げて頑張ってくれた人に報いるということは、また別問題である。本人はただ自分の為に生きている。しかし、それを気持ちよくフォローがされる志の社会。こうした自然の社会環境こそ大切である。そうした意味で、プロスポーツと言うのは、好ましいものではない。アマチィアリズムこそこれからのオリンピックでは見直されなければならない。すべての分野で言えることだ。絵描きも、自分の絵を描きたいから描いているのであり、絵が売れるとか、売れないとかは、どうでもいいことである。農業でも、素人の方が徹底して理想の作物を作れるという事がある。