核廃棄物問題
核廃棄物の処理方法は、地震国日本では現在の知見ではない。地層処分は無理 日本学術会議でも解決見えず。ということらしい。原発が出しているごみは、処理法がないものだという結論。現代人は未来に対して負の遺産を地球に残してゆくことになる。これは現代人の未来の人類に対する、責任の放棄である。廃棄物処理解決の糸口が見つからないものを、自分達の時代の恩恵だけを考えて利用して居ていい訳がない。処理方法がないのだから、廃棄物処理費がコストに入れられていない。それでいて、何故安い発電法と言い切れるのだろう。こんな余りにも当然のことが気付かない訳がない。気付いてしまうと競争に負けるので、見ないことにしているということだろう。これも安全神話の構築である。
自分の始末は自分でつける。これは人間として当たり前のことのはずだ。核廃棄物を未来に残すという事だけは厭だ。同じ人類として余りの恥だ。人類は次々に地球というものを破壊してきた。エネルギーの使いする儀で、温暖化現象を起こし、気象が変化をきたしている。他の生き物にしてみればは、随分迷惑なことだろう。大抵の生き物は、バランスを取りながらその範囲で生きている。今さえよければ構わないというのが人間だとは思いたくない。今ならまだ間に合う。原発を止めることだ。それで廃棄物の処理に真剣に取り込むことだ。原発を止めるには覚悟がいる。確かに急速に転換することで問題も出るだろう。しかし、合理性だけで考えていたら、何時になっても止められない。廃棄物処理の方法が見えない原子力は廃止。理由はこの一点で良い。
それでは人間はどう生きればいいのか。大きなヒントが江戸時代の日本の社会にある。循環型社会である。「地場・旬・自給」の考え方である。間違っても江戸時代に戻れというのではない。自給という以上トラックタ―を使うなという意見があった。そう言うことでは全くない。現実の条件の中で、もっと理性的にこの事を考えるべきだ。現代の科学的な成果を十分に活用し、循環できる範囲での合理性を見つけることだ。原始的な生活に戻れというような宗教活動ではない。現代の技術をの中で、循環が可能な範囲の技術を取り入れてゆく。そのつもりになれば、相違した技術革新がすごいということが分かる。原発事故以降に、検討されている自然エネルギーの利用も実に多様である。技術というものには、原子力の様な落とし穴がある。あくまで人間の為の技術を見極めることだ。廃棄物の処理法が分からないようなものは、未完成の技術だ。
問題はその背景となる、人間の思想だ。自分さえよければとか。競争に勝たなければ始まらないとか。こうした思想に支配されていれば、悪の技術を用いて勝とうとするものがいる。負けても良いとは言えなくなる。日本が原子力発電をやっているのは、いつでも原発の製造をして、もしかしたら今もしていて、していないとしても瞬時に生産できる体制は取っておく。そうして抑止力にする。こういう思想がある訳だ、又、世界情勢を見れば、大半の国がそうした思想のもとに、競争に躍起となっている。日本だけ取り残されても良いのかという不安に支配されている。それでも止めた方がまだましだと考えている。競争を止めない限り、明確に地獄が待っている。競争を止めれば平和に暮らせる可能性は残されている。どちらも、とても不安なことだが、同じ心配なら、可能性にかけたい。どこの国にも、競争などやめて平和に暮らしたいという人たちはいる。