原発住民投票は必要

   

東京都議会で原発稼働の是非を問う都民投票条例案が審議されている。石原都知事は、政府が判断すべきことだから、住民投票は反対だそうだ。それなら、尖閣諸島で政府に横やりを入れている東京都の政策と、矛盾している。原発のような、国民すべてに及ぶ問題では、住民レベルにおいて、投票で判断をすることは、民主主義として必要なことだ。これが総選挙では、消費税の是非か、原発の是非か、結果から分からない。国民の意思が良く見えないことをいいことに、政府は自分の好きに解釈してきたのが、現行の民主主義である。行政とか、立法府とかは、自分の都合で動きたいというのは、当事者としては、当然のことだろう。自分達がこの道の専門家であり、一番詳しく知っているし、また総合的な判断能力もあると、考えているだろう。その良い例が中国政府である。民主政府と言いながら、国の都合で住民の権利とか、意思は相当に無視されるようだ。その方が、結局は国民のためなのだという考えらしい。

しかし、原子力発電はもう一度何か事があれば、日本が終わってしまうような重要な項目である。これは国民が、選択すべき項目だと思う。今、福島県民が投票すれば、間違いなく原発は反対であろう。しかし、時間を稼いで、ほとぼりが冷めれるのを待とうというのが、政府の狙いである。これは、民主党も、自民党も、多分公明党も同じである。経済を第一に考えれば、事故はもう起きないと信じることが、一番安上がりである。まずは起きないというのが、過去50年間の考えであったし、徐々に芽生えて来る、人間の安全意識である。誰しもが地震保険に入っている訳ではない。多分、地震は来ないし、地震は来た所で、自分の家が壊れる訳でもないと考えている。そういう風に感じているから、日々普通に暮らして要られるのだろう。これが、5年間の間に地震は来る。今日かもしれないし、今かもしれない。こう思っていたら、暮らしが落ち着かない。

動物を見ていると、死のせまる間際まで、何ら関知しないで平然と生きている。寿命からするとあと何年位生きているとか、つまらないことは考えない。最近ぼーとして来たなという位のことで、ある日死んでゆく。人間は危機を予測できる。地震は必ず来るとしなければならない。来た時どうするかは、日ごろから備えておくのが普通のことである。それでも地震保険に入る人はめったにいない。行政や、政府はこの心理に付け込んでくる。もう一年もすれば、原発事故があったことなど、忘れたようになると思っている。多分そうだろう。普通に暮らしているということは、そう言う事だ。むしろ忘れてならないのが、行政や政府の方なのだ。ところが、行政や政府は、知っていながら経済を優先する。税収で暮らしているからだろうか。直接生産にたづ触らない人は、口先の操作で上手い解釈で切り抜けようとする。

東京都の民主党は住民投票を支持している。ああー民主党もあったのだと思う。良かったと思う。これでこそ存在価値がある。石原都知事が住民投票を避けるのは、原発を再開したいからだ。自民党はまさにそうした諸悪の根源政党であった。公明党もなんだかんだごまかしながらも、原発再開に賛成なのだ。どっちに擦り寄ればを判断しているに過ぎない。大阪市での対応はひどかった。結局はこういう時に現世利益を基本的な思想とする宗教という事が見える。命と暮らしを大切にするなら、脱原発は宗教を母体にする政党として当り前であろう。今回の東京都での動き方も、良く見ておく必要がある。憲法問題でも、軍事的問題でも、国を左右する大きな方角は、国民投票を行うべきである。そしてそれを参考にすべきだ。いつまでも避けていれば誰も責任を感じない、国民と国家になってしまう。

昨日の自給作業:田植え 2時間 累計時間:51時間

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