原理主義について

   

原理主義は宗教に対する言葉として使われる場合が多い。アメリカの禁酒法とか、イスラムの教義に殉ずる、イスラム原理主義というようなことになる。科学原理主義というのもあり、一つの科学的原理ですべてを判断する傾向のことを指しているのだろう。どちらかと言えば悪く言う場合が多いが。自分の宗教の名前に冠している場合もあり、原理主義そのものは思想のあり方である。悪い訳でも、良い訳でもない。私のなかにも原理主義的な傾向は多分にある。そう言うものを内に秘めていない人間というのも物足りないと思う。山北で開墾生活をしていたころは、人力で自給生活をした。自分という人間が山を開墾して自給の暮らしが可能なのか確かめてみた。機械を使わないということで、1時間近く山を登る場所なのに、車はないどころか運転免許がなかった。自分一人のことであれば、原理主義というのは素晴らしい事だと思う。問題は自分の原理を他人に押し付ける所なのだろう。

第3の道を探すことが社会的な解決になることが多い。社会は多数の人間で構成されている。他の人にも原理はある。当然それは自分とは違う原理である。だから、人と合わせるという場合、互いの原理に固執すると、関係が成立しない。環境団体の集まりで、ペットボトルのお茶が出たというので、その組織を止めたという話を聞いた。あさま山荘事件では、カップヌードルを食べたというので自己批判された。他者に同一性を求める。これには誰もが厭だろう。だから、農業技術の指導という事すら厭だ。自給農業を書いているが、あくまで考え方の参考の範囲である。その人にはその人のやり方を探して欲しい。自然農法でも福岡さんのやり方は、相当に原理主義的な印象がある。一切耕さない。理屈としてはなかなか面白いものである。しかし、広がらないのにはそれだけの理由がある。やってみればそう言うことは分かる。

私に原理があるとすれば、「地場・旬・自給」である。後は楽にゆるく考えている。ビニールを使う。機械を使う。こういうことも、楽であれば取り入れる。ビニールハウスなどおかしいとか。トラックタ―などおかしい。こういう考え方も面白いとは思うが、固執はしない。本当にやろうとしたらそう言うものだと思っている。実践のない思想は、砂上の楼閣を作る。実際に田んぼを、もっとも楽にやるというのが方法論である。山からの恩恵で、田んぼは出来ている。そして海を育てている。大きな自然循環の中で、自分の暮らしを織り込んでいる。あの山もすべて畑にしてしまえと、開墾し耕地を広げて行けば、田んぼが駄目になる。山を黒木の植林だけにしたら、多様性からくる豊かさが失われる。全体性と循環が豊かさを形成する。日本の農業は、永続性を保ち方に優れていた。それには、何か一つを特化するのでなく、妥協して総合性を重視する。良いころ合いを重んずる。

100人100様を本気で探る。その方が面白い。農業が良いのは、結果が伴うからだ。どれほど素晴らしいと自己主張しても、生産物次第である。結果は5年以上の継続がなければわからない。口先の人間には、5年が続かない。自分流の田んぼが水でつながる。このかかわり方で、互いの生き方を尊重せざる得ないということに日本人は気付いた。上の田んぼの住人が気に入らないとしても、共同して、他所の地域と水利権を争わなければならない。争うという事は妥協することであった。水路の掃除をしなければ水は来ない。そして、排水を汚せば、海まで悪くする。こういう条件の中で日本人は生きてきた。原理主義にはなりえないのが、江戸時代の水田の百姓だ。日本人はなかなか複雑な奥行きがある。武士では百姓は出来ない。「おいおい出来る範囲で」こういう考えが百姓的で憧れる。

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