原発の稼働しない日
多分、わたしはへそ曲がりである。相当にそっぽを向いている。ああ言えばこう言うし、権威と言うものにはすぐ反発を覚える。指導されるのも、するのも大嫌いである。そのままここまで来てしまった。原発がすべて止まった。まず1っ歩前進と考えている。困ったことだという人もいるだろう。この1っ歩をへそを曲げないで前向きに考えたいと思っている。原発が無くなると、電力が足りないということである。それを我慢しようという事だ。夏のピーク電力が来るまでに、どうしても無ければ困るような電気だけを使うように改善しよう。工場や、大きな施設は、自家発電を推進する。本来なら、1年前には、国と電力会社はそう言う方針を決めて、進めなければならなかった。掛け声としては、再生可能エネルギーは方針は出された。しかし、まだ夏に間に合うように動いてはいない。
節電と自家発電の方向は、今一つ明確でない。この2つは電力会社の営業にかかわるものだから、ごまかされてきた。独占企業の営業というおかしな面が出ている。何を置いても、節電である。電気の使用ピークが出来ないような方策である。まだ効率は悪いが例えば、蓄電池を用意して、夜貯めて昼に使うようなことだ。そうしたもろもろのことが推進されるために、電力の使用に価格差を導入する。昼と夜では、10倍電力価格が違えば、取り組む人が増える。電気の使用に従い、価格差を広げる。1キロワット使う人と10キロワット使う人では、10倍くらい価格差をつける。ピーク時の電力は最低価格の100倍くらいにする。大胆な価格差で節電を促す。加えて、社会的に無駄な電力を減らす努力をする。公共施設では、自動販売機は禁止。甲子園の高校野球も暑いさなかは休憩する。謙煙権と同じで、無駄な電力使用を問題ありとする社会に変える。消費的な暮らしを良くない暮らしと位置づける、社会的な合意形成をする。もったいない社会の再認識である。江戸時代のような節約を美徳とする社会を作り出す。
企業の自家発電の推進。多分これをやると、電力会社は困るので、今まで進んでいないのだろう。企業が使う場所で、発電をするようになれば、一番安い電力のはずだ。以前、ある製紙工場でそういう事例を見たが、電力にまでせず、蒸気をそのまま動力に利用する方式を取っていた。電力の地方分散。一極集中の為、長距離の送電が行われる。発電する所に大口の需要は移動させる。風力発電所の適地に、電気を大量に使う施設がつくられる。出来る限り送電をしない。家庭の電力はすべて家庭の屋根で行う。屋根のない人には、公共施設の屋根を貸す。個々の暮らしは自家発電にする。その電力を、電気自動車の蓄電池にためて、夜は使う。ソーラー発電の施設設置費用は融資する。屋根のない家庭には、公共の屋根を貸し出す。各地域に電力会社を作り、ここで一括して再生可能エネルギーを発電する。発電だけでなく、その地域に潜在する再生可能エネルギー精査し利用する。地域の利用者は地域発電所の電力を選択することが出来る。選択することで、地域の会社を育成することになる。
原発がすべて止まったこの日を、「子供のための日」として新しい日本の出発の日にする。日本が再生可能エネルギーの国なることは、資源のない大半の国にとって新しいモデルになる。前向きに考えれば、日本の新しい産業になる。原発傾斜する前には、そういう方向もあったのだ。時代を見誤るという事の、怖ろしさ。どの発電方法でも、弱点欠点はある。総合的に考えバランスを取ることが大切。一度、効率的ということである方向に傾いでしまった方角は、正す事は容易ではない。これが今の日本の一番弱い所だ。人間が保守的になり、反省し、考えを変えるという事が出来ない。エネルギーを自給する社会は、拡大再生産しない社会である。大きく日本が転換し、世界の経済競争から降りるということになる。そのままであることを良しとしたうえで、生きる目的を競争の勝利から、簡単に言えば誤解しかないのだが、内的な深まりに変える社会である。封建的でない江戸時代である。