窓辺

   

今ブログを書いている場所からの眺めである。朝顔の日よけがある。最近の言い方ではグリンカーテン。2本の朝顔を植えてある。一夏中こんな調子で窓を覆っていた。良いものである。朝顔の内側には、網戸がある。窓からの風が抜ければ、何とか暑い日中でもしのぐことが出来た。毎朝、5,6輪は咲いている。氷のような色をした、涼しい色の朝顔である。そろそろ種になってきているので、たくさん種を取って来年は苗を作ろうと思う。金沢に居た頃からの友人のアサヒさんは街中に朝顔が咲いたらばいいだろうと、ふと想像した。朝顔の種を、街中に蒔いて歩いた。町が楽しくなると考えたのだ。アサヒさんは本物の芸術家だ。それから35年経って、金沢の現代美術館に大きな朝顔の壁を芸術作品として作っていた。日比野教授の発案ではなかったか。朝顔と言ってもヘブンリーブルーと言うものだった。あれはちょっと否だ。傲慢な匂いがする。そこはかないさっぱりとしたところがない。ブルーの色の濃さだけが特異で、肌に合わない。ようするに生活のない帰化的芸術。

机の上の一番良い木陰は、猫の寝場所が2つ並んでいる。さすがに日中は寝ていたのは見ない。左にある塔のような不思議なものは、猫の遊ぶ台である。写真にはないが、その左側の下で雷田が暑い暑いと言ってひっくり返っている。来年の夏までには、犬の為の涼しい部屋を作らないと、耐えきれないだろう。福ちゃんも暑がりで、最近やっと息をついたという状況である。ドンチャンも首輪が擦れた所から膿んでしまって、やっと治ってきた所だ。犬には最近の暑さは耐えきれるものではない。冷房を犬にだけ入れてやるのもどうかと思うが、どこかに夏の家があって、生き物を引き連れて移動できればいいのだが、来年の夏までには考えないと犬の命が危ない。

窓辺からの風景を描いた画家かいる。イタリアの画家モランディー。20世紀前半の重要な画家。おもに静物画を描いた。そして窓からの眺めを少し描いた。モランディーは静かな絵を描いている。印象派は外光から来る、まばゆい色彩を重要に考えて、野外で絵を書くようになった。野外の光は思索的なモランディーには合わなかったのだろう。ほとんどの作品が静物画なのだが、それはあまり興味がない。作り過ぎである。作りものはやはり面白くない。興味を引くのはどうにもならない所をどうするか。この軋轢と言うか、混乱や当惑を含んだところに引きつけられる。窓からの風景はいい。私は岸田劉生を思い出す。似ている訳ではないのだが、絵に精神がこもっている。

そんなことを思ったのは、月光がこの窓辺から射していたからだ。色はなく、形が浮き上がっている。無いと思っていた色が、わずかに反映して見える。仲秋の美しい月である。日本の風景と言うことを考える。風景は水土であり、日本人の生き方の反映である。この窓から見える眺めも現代日本である。日本人は風景を、何のためらいもなく壊している。経済の為なら、風景に目が行かない。江戸時代の日本は日本人を反映した、立派な風景を持っていた。あの鎮守の森は残そう、それならば、あそこの道は右に迂回した方がよかろう。それならあの畑はどうしても田んぼでないといけない。家はあの辺が良い。そうして地域の風景を作り上げる、素晴らしい水土の仕組みと知恵が存在した。風景は伝統文化である。月光を描くには、野外で描く訳には行かない。窓辺から光を消して、じっと眺めていて、その記憶をもとに描いている。もうすぐ、13回水彩人展である。

 - 水彩画