健全な世論

   

鉢呂吉雄前経済産業相の「放射能うつす」発言からの辞任。日本の世論が健全さを失っている。不安だ。これはマスメディアまで、ネット的になってきたことが影響しているのではないか。思想や健全な社会を作るための批判精神を失って居る。マスコミ報道が、まるでストーカーのようだ。突然はまりこむように、世論がヒステリックに盛り上がる。鉢呂氏の辞任スト―リを思い返すとと、政治がこの罠に絡め取られることも簡単であろう。危険領域。自分の目で物を見、考える報道が減少している。引っ掛かる情報が出ると、一斉に横並びになり叩く。このストーカー的反応を計算づくで操作する人間が出現する事が怖い。ダイオキシンが絶対権力になった時に、溶融炉の推進を政府経済界は行った。市民の健康を守ると言う正義の御旗を掲げ、ごみ処理広域化が進んで来た。補助金と賄賂である。当時ダイオキシン問題で、少しぐらい出ても大丈夫等と意見を出すと、袋叩き状態であった。今放射能がそうした状態である。

あまのじゃくだから、逆を考えてみる。いつの間にか、一部の人たちは4ベクレルだって危ないという気持ちにまで来ている。「年齢条件を付けて、63の私は100ベクレル程度は食べる。」などと言う考えはマトモトには受け取られない。「福島の子供たちを見殺しにするのか。」と言うことになる。この点ではその通りで、私は福島の子供たちに、何も出来ていない。どうしたらいいのかと今も思う。それでも、私は100ベクレルなら喜んで食べる。やるべきことは原発をやめさせるということ。次の事故を起こさないということだ。それは、原発を海外に輸出するなどと言う事も止めさせるということだ。原発をやめさせるには、日本の拝金主義を変えなければだめだ。その為には新しい暮らし方を提案する。それが『地場・旬・自給』である。楽しく暮らしを続けることが、役割だと思っている。暮らしを変えない限り、原発から離れられない。溶融炉から離れられない。

何をやればいいのか。段ボールコンポストである。段ボールコンポストを全員が行う社会になれば、原発はいらなくなる。随分遠回りな考え方だが、遠回りしか社会は変えられない。段ボールコンポストは継続が難しい。理屈や理想論を述べ立てる人の多くは続かない。続かないのが普通だから仕方がないので批判はしない。段ボールコンポストすらできないで、原発の廃止を主張しても社会は変わらない、と考えている。自分の生ごみの処理すら、自分で出来ないでおいて、自分に迷惑をかける放射能だけ、責めるのでは説得力がないと思う。そのように、一人でもやれることはある。あるのに出来ないのが人間である。この駄目さを認めたうえで、それではどうするのかと、同じ地平で考えるべきだ。他人には絶対を求め、自分はやるべきことが出来ない。そういう社会であるという状況を踏まえ、どうするかではないだろうか。

ストーカー社会は自らを省みない匿名社会だ。自らを省みなければ、何でも言える。鉢呂氏の死の町発言は、現地を見てきた、普通の感想である。大臣としては言い方に配慮は足りないかもしれないが、辞任しなければならないようなことではない。失言をあげつらい、追い落とす社会。厭らしい社会である。何か密告者が隠れている社会に似ている。政治家にお願いしているのは、大きな日本の社会の方角を、議論してもらうことだ。原発をどうするべきかを真剣に議論してもらいたい。この重要な所を曖昧なまま、強い力になびいてゆく社会は良くない。それが世論と言われるものであれ、財界の圧力と言うものであれ、同じことである。自分にやれることはやる。やれないことがあるのも認める。その上で、どのあたりが妥当なのか、良い加減の方角を見定める。

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