中国鉄道事故

   

日本の報道は事故の内容より、中国政府の対応のひどさに焦点を当てている。確かに慌てて列車を壊して埋めたという事実は、すごいの一語である。中国政府の構造を如実に表している。それはいかにも福島第一原発事故の日本政府の対応ぶりを思い起こさせる。中国政府ほど荒っぽくは無いが、日本政府のやり方の方がはるかに、陰険であくどい。地域住民の命をないがしろにする冷酷さは、悪意に満ちていた。想定外を叫び続けながら、原発の大爆発を予測し、そのパニックを想定し住民を切り捨てた対応をしていた。中国政府は商売最優先である。その前提で幹部の顔色が第一の重要項目である。幹部はこの事故を隠蔽しろと言うに違いないと、現場が顔色を読んで判断した。中国の現場は国際感覚が乏しいから、埋めてしまえば何とでもいえる、と思い込んだのだろう。さすがの判断と幹部からほめられると確信した人間がいたのだ。異論と言うもの存在しない社会。

日本政府と現場東電との関係は違った。とっさの判断が案外に民族性を表すものである。政府も東電も阿吽の呼吸で、最悪の場合周辺地域住民を犠牲にした方が、国全体としてはいいと考えたのだ。全体を優先すると言えば聞こえがいいが、稲藁放射能汚染でもわかるように、判断と言うものが出来ない結果そうなってしまうのだ。政府がオタオタするだけで、判断、決断はない。成り行き任せで実はすべてを東電出先が動いていただけ。初期判断ミスどころではない。そして原発御用学者は等しく判断できず、発言すれば直ちに人体に影響は無いぐらいであった。思い切ってすぐ埋めてしまった中国現場の対応の方が、ある意味正しい。原発は最初から埋めてしまう方針で、どんどんコンクリートで固めてしまえばよかったのかも知れない。どうせ理屈は後追いなのだから、何故東電は埋めてしまわなかったのかと、そんなことも今では政府では考えているだろう。

本当に残念なことに、日本の政府は実行力、判断力と言うものは無い。中国のように実行が先行するというのも確かに怖いが。流されるままである。流れ着いた先で事が起こると、あれこれ部外者のような意見を述べるにとどまる。政治家もほとんどがそのようなものであった。明確な意図を国民に示し、方向付けをしようとした人は河野太郎氏位である。その河野氏は現在自民党では役職停止処分の身である。物言えば唇寒しで、今や政治の世界は民主主義国家とは程遠い状況にある。中国共産党の一党独裁、現場実行主義がうらやましい位である。原発の事故に至る道筋を考えてみると、誰もこの国家方針に意見を言えない状況となっていた。意見があると、先行して叩く構造が出来上がっていた。この原子力マフィアの仕組みは、利権を共通目的として実に有効に機能していた訳だ。ここにむしろ日本的組織の良さと限界が見える。方向が正しい時には力を発揮するが、間違えを正す機能を持たない組織。

日本の組織の決断力不足。足は引っ張るが決断は出来ない。政治家の多くが電力会社からの献金を受けてきた。建設業は大きな仕事を受注してきた。原子力推進の学者は、優遇され尊重される。報道機関は莫大なコマーシャル収入を得る。地域社会が送電線収入や多額の補助金と仕事をもらう。批判勢力を封じ込めるチェック機関ががんじがらめにある。批判論文には徹底したあらさがしを行い、学会での地位を低下させる。NHKでわずかな批判的内容があった時にでも、NHK上層部に対して徹底的な圧力を加える。安全神話を作り上げるための、あらゆる分野にわたる用意周到な組織づくりが行われてきた。ダム建設、道路建設。等公共事業の多くもこうした構造を持っている。すべて日本の社会の細部にまでわたり、何も決断できない不思議な構造が出来上がっている。発言をする、決断をする、行動する、ということを用心深く自己規制する社会。

 - Peace Cafe