風景の意味

   

風景を描くことが多い。今年の春は、全く描けなかった。描きたくなかった。描きたくない時に絵は描かないから「一枚の繪」の会場で菜の花を描いた時以来、筆をとっていない。いつもは散歩をしながら、頭の中で絵を描いていたりするのだが、そう言うこともない。描きたくなるように見えないからである。庭にも、杏子、桜、桃と咲き乱れた。しかし、いつもの年とは違うものに見えた。風景が美しいとか、癒されるとか、そう言うことがいかに内的な受け手のものであったかが分かる。確かに絵は美しいから描く訳でもないが、絵にしたいという根幹の部分と、美しいという感激が繋がっていることは、一応いいだろう。以前、石和の桃を描きに行っているという話をしたら、あんな農薬まみれの桃を良くも描く気に成れると、驚かれたことがある。反農薬原理主義者にしてみれば、農薬がかかっている意識が、桃の風景に重大に影響することに成る。

放射能に汚染された風景。この桜の花も放射能に汚染されたのか。こういう意識が桜の花を美しいものとして見れなかったのか。確かにそれもあるが、父が死んだ時も、母が死んだ時も、しばらく風景がなにも語りかけなくなった。多分、大津波。原発事故。多くの人が死んだ。日本と言う国自体が死んだような気がした。この時代に生きてきた一人として、ここに至る道を歩んで来たのかという、情けなさと絶望感に、取り込まれてしまった。風景に愛情が持てないという状態。マサイさんが美しい景色と言いかけて慟哭した。もう一度美しい風景と言って慟哭した。美しいと見えない自分が絶望に取り込まれる。それは心の問題だ。心が変われば風景は何も変わらない。自分の気持ちの持ちようで風景を取り戻すことは出来る。このように絞り出すようにいわれた。100年かけて風景を取り戻そうと考えたと言われた。そうして川内村の漠原人村に戻って暮らしている。

今、野山は緑に満ち満ちている。早朝、田んぼをコロガシながら歩いていると、自分自身が風景に成る。そのよそよそしい怒りに満ちたような風景の中の景色に成る。風景が許していない。風景はこの人間の仕業を許していない。もちろんそう思うのは自分の心の持ちようである。同じに風景が見えて、前のような絵を描くことができるのだろうか。このしらじらしい、怒りの風景を描いてみるべきなのか。違うように見えるなら、違うように描けばいいのかもしれない。描いてみたいという気持ちは、少しづつ湧いてきている。先日銀座に出て、少し絵を見た。友人が個展をしていたからだ。絵は震災があったことなど全く反映していない。マチスの絵もそうだ。娘さんがゲシュタポにつれて行かれる。その時期の絵が平穏ないつものマチスの絵である。多分、マチスにとっては絵と言うものは、科学的なもので、心の関与するような感情的なものではないのだろう。

マチスにあこがれ、絵を描いていた訳だが、自分が丸で感情的で、情に流されて絵を描いてきたことをしみじみ知った。多分日本人の描く繪の大半が、気持ちの絵だ。しかし、震災の影響が絵に表れないという不思議な、気持ちの繪のようだ。人のことはどうでもいいが、自分が描く気に成る絵がどんなものであるのか。今は、待っている。マサイさんの言葉が、抽象画のように聞こえた。飛躍しながら、繰り返されながら、世界観を語られていた。それは論理だけでもなく、感性だけでもなく、マサイ哲学を表現していたと思う。あの飛躍が、展開が、ちりばめられながら伝わった思想。具体的な言葉はなかったが、マサイさんのことが少しわかった。絵もそうなのだと思う。この進退きわまるような、絶望の中でどのように絵を描くのか。それが自分が生きてきたものに、真実があれば、きっといつかは表れて来るのだろう。

昨日の自給作業:コロガシ、草刈り、3時間 累計時間:32時間

 - 水彩画