放射能差別

   

つくば市では、福島県からの原発被災転入者に対し、放射能のスクリーニング検査の記録の提出を要求していた。放射能差別を行政が行った事件。無神経と、それを支え評価する市民意識の存在。市長は放射能チェックを当然のことととして、その必要性を主張していた。他者の痛みを感ずる感受性の欠落である。一期一会というではないか。みんなでオロオロしようではないか。福島県民の宿泊を拒否したホテル。神奈川県の老人介護施設での、福島県からの入所者にの放射能検査記録がないことでの、入所拒否。小学校での福島からの転入児童に対して、放射能が移るという心ないいじめ。自らの安全にだけに執着する醜い日本人。科学的データーの要求だから問題はない。こういう配慮のない姿勢が悲しい。非常時にこそ、その人間の本質が表れるものである。川崎市ではごみの焼却で、市民から被災地からのごみ受け入れに対する反対が起きている。原発事故以上に悲しい。

不安を増幅している人は決して収まらない。ああでもない、こうでもないと、不安要素をきりなくあげる。そして結論として、100万分の1がわが身のことに成る。まさに杞憂ではないか。いつ何時セアカゴケグモに刺されて死ぬかもしれない。不安の増幅。むしろ、そうしてくよくよ思い悩み、嘆いていれば免疫力が低下して、がんのリスクがますます増大するだろう。それはもう、10万分の1くらいに成っているかもしれない。現実を受け入れる。朝起きたら生きている幸運を感ずるぐらいでいい。前向きに対応することだ。放射能が厭だから、飛行機に乗らない。CTスキャンは受けない。それも選択である。こうした不安が広がった背景には、海外の不自然な対応がある。韓国では、小学校が雨の日に休校になった。現時点でも日本への渡航注意を続けている国もある。そういう事実から、日本政府は深刻な何かを隠しているに違いないということに成る。政府が信頼されない、報道が信頼されないから、様々な憶測が広がる。

人間は必ず死ぬ存在である。常にリスクの中に生かされて居るにすぎない。リスクの覚悟がない現代人。100万分の1のリスクと、100分の1のリスクの判別がつかなくなる。日本人が本当のところを生きていなかった、というか死ぬことに気づかなかったあらわれである。江藤淳氏は「ごっこ社会」と名付けたそうだ。最近で言えばバーチャル空間の中に生きている人間。日本人はさんざん行われた原子力爆弾の汚染に随分長い期間さらされた。まちがいなく。今回の福島事故より、小田原でいえば放射能を多量に浴びていたと思われる。通常値の1000倍と言われている。1950年前後が特にひどい。米ソの核軍拡メガトン競争という、とんでもない時代があった。データーのようなものは全くなかった。当然、マーシャル群島は住めなくなった。ソビエトには全滅した村もある。日本での発がん率の中で、水爆実験の放射能汚染を主張する人がいない訳ではない。それでも、日本人の寿命は世界一である。

今回でも、海の汚染はすぐにコウナゴ汚染に現われた。生体濃縮などありえないなどいう学者が出て来るので、いよいよ疑心暗鬼で不安が増幅する。今回の事故は土壌より、海水汚染であろう。ビキニマグロは何だったのか思い起こす。原子炉には水をどんどんかけた。放射能は大気中より海に流れ出ている。土壌汚染は思ったほど広がっていない。土壌から作物に放射能が移行するような地域は、いまのところ極めて限定的である。作物は放射能を根から吸収する量は少ないとされている。だから植物は動物よりはるかに長く、地球に生き残ってきたのだろう。ヒマワリは吸収するといわれているが。ヒマワリの回収システムのようなものを作る必要があるだろう。それでも相当長い期間が必要になる。地域によっては表土を取り去った方が早い。いずれにしても雨で海に流れ出す量が一番多いはずである。海の継続的なデーターを細かく取る必要がある。

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