水土の再生2
日本農業は大きな岐路に立っている。展望は大きく2つにわかれている。一つは、工業製品並みに輸出産業となるような競争力を付ける。その為には企業の農業参入を推進する。という方角である。二つは、望郷的なのどかな農村復活の夢である。自給自足的農業に戻ろうという、私の主張も大きく言えばここに含みこまれるのだろう。いずれの考え方も具体的展望が無いため、結局、農業の未来論はほぼ絶望に至ることになる。そして現状では議論すらしぼんでしまい、あまり聞くことも無くなり始めた。政府や、野党の言う農業政策は、選挙向けのものに限られている。その時票になりそうな時節柄のことを、マニュフェストなどと称してもっともらしく書いているが、真に受けるに値いしないことは、民主党の戸別補償政策を見れば、明白である。以前は官僚が議論をリードしていたのだが、官僚も発言できない状況である。からこそ、農家自身が農業の未来を提案しなければならない。
工業製品が、日本国内で生産できない状況である。利益を高めるためには、生産を海外に移そうという方向であろう。農産物でも生産効率を上げるためには同様なことが起こる。プランテーション農業である。さんざんヨーロッパが帝国主義時代にやったことである。そうして、世界の地域農業を崩壊していった。もう一度それをやれというのが、農業の工業化の本質である。輸出産業がいかに危ういものかは、尖閣諸島でわずかなトラブルがあるだけで、中国の強気にすべてをひっこめる以外ないのが日本である。背景にあるのは、中国で利益を上げているから、ご無理ごもっともになる。これが、輸出産業化して、ベトナムあたりでM農林が農場を作り、世界に輸出するこういう構図が、日本にとっ望ましいものであろうか。多分輸出産業化しろ、あるいは企業の参入が出来るように、このような主張をする人は、日本国内で農業生産をしてくれると考えて主張している。どうやって高い農地と、高い人件費を、吸収できるのか。先駆事例では、企業への補助金という流れを作っているに過ぎない。
一方、ノスタルジック論が後ろ向きなことは当然で、美しい農村論である。この考えが一般化しないのは、経済の価値観が立ちはだかるからである。人間が暮らすというのは当然のことだから、ここに、きちっとした論理が通らないことには、美しいだけでは意味が無い。実は、ここに富国強兵以来の、経済のまやかしがある。脱ダム論を考えて見る。二方向だろう。ダムで治水をする。一方総合的に河川の管理をすることで、治水をする。この分かれ目である。ダム治水は分かりやすい。所が連鎖の中で環境破壊に始まる、暮らしの崩壊にもつながっていた。詳しくその筋道もいずれ書くが、今は、総合河川管理の方の説明をしたい。。水の循環の中に、暮らしの方を織り込んでゆく。水田がダムである。天からいただく水の一滴も無駄にしない。汚さないで、循環させる。食べ物の生産をしながら、水を浄化し、再生して、海にお返しする。海では魚や海藻が育ち豊かになる。この暮らしを支えてきた総合力は、やはり経済でもある。農業というものをお米を生産するという、その役割の半分も見ないようにしてきたのは、工業重視の方向によった。
工業用水を優先的に取るために、農業利用を季節的なものに限定した。このことによって、田んぼによる治水とは切り離すくとになった。そして、ダムを作り堰堤を作り、河岸はコンクリートで固められた。治水の総合の中で農業を考えないようにした。水土の分離である。このようにして、農業は暮らしから切り離された。生き物を育む。美しい場所に暮らす。世界で最も美しい国が、無残にもコンクリートで固められた。もう一つの農業の観点はその教育力である。稿を改め、このことにも触れたい。日本という国の水土を再建するには、誰もが農業に携われる、社会にするしかない。これもノスタルジックな農業と見られるだろう。しかし、未来から見て日本の再生性の為の方策である。90%の日本人は農業経験がある社会を目指す。企業は出来る限り分散させる。都市というものを出来る限り縮小する。その具体案も次の項目とする。
昨日のう自給作業:9時間稲刈り 累計時間:16時間