教育力の低下
日本の社会は、迷走飛行している。なかでも心配なのが、教育力が低下していることだ。学校教育から、社会教育まで教育にまつわることでは、50年前と比べて、どの分野でも低下してしまった。このことには異論は少ないだろう。このたびノーベル賞を受賞した学者の方は国民学校出身といわれていた。社会環境は随分良くなって、かえって教育状況が空洞化した。それでも、必ず言われるのが、基礎研究の予算不足、研究環境の劣化。金さえかければ良い研究が出来るという気持ちの方の劣化。戦後の何も無い時期の方が、戦時中の方が、本気の教育があった。人間の能力が下がれば、国際的に日本という集団は、その地位は低下する。日本は日本人という能力で出来あがっている。企業や資本は能力を求めて、その質の高い地域に移動するだろう。それは、賃金とか、資源と言う以上に深刻なことになる。年間自殺者3万人以上、10万人の人口の流出、現象はその表れかもしれない。
教育を受ける側の意欲の衰退が問題、これが深刻なのだ。何より教育は本を読むことだと考える。中学生時代読んだ本で一番忘れがたいシリーズが、筑摩書房より1960年~1964年に発行された「世界ノンフィクション全集」(全50巻)である。今こんな意欲的な出版は絶無だとおもうほどだ。ともかく本好きの家族で、父がこの本を買うことにしたに違いない。食後になんとなく、読書感想会が始まる。それがそのまま真夜中まで続くこともある。読んでいないと、発言も出来ない。読めと言われる訳でもないのだが、話に入れないということが、とても耐えがたかった。年齢的にも背伸びをして読んだのかもしれない。多分父の教育の方針だったのだろう。「若い者の仕事は、好きなことを見つけることだ。」が口癖だった。その方法として、本を読むことを習慣ずけたのだろう。中学でも高校でも図書館で一番借りる兄弟になった。
教育力の低下は出版業界から、教育業界まですべて、経済競争の中で質の低下をしている。駅前留学の英語教室がなど、まさに教育というより、金儲けそのものである。学びたいという意欲は、駅前どころか金次郎のように、山まで歩くぐらいがいい。教育は学たいものが、教える人間を求める雲水修行である。教える方ばかりが目立ち、学ぶ側の意欲の低下で消えかかっている。希望の持てない社会的な雰囲気が深刻である。学校に行きたいという強い思い。その背景にあった、知らないことを学びたいと、知ることの喜ぶ。こう言う原初的な人間の欲求が弱まっている。意欲の衰退。今やこれが日本病ということになる。教育環境がいくら整ったところで、学びたいという意欲が衰退すれば、どうにも仕方がない。生きることの実感が欠落していれば、学びたい、知りたいは生まれない。当然本を読みたいという、知らない世界を知りたいという意欲も衰退する。
この状況を変えるには、国民すべてが一次産業に従事することである。人間の意欲欠乏は農業から、一次産業から暮らしが離れたことに起因している。学ぶということは、身体が覚えるということで、この体験が身体にしみついていないのでは、学ぶことは難しい。日本人の大半が農業に、特に、稲作に従事した時代は、教育はというか、学ぶ意欲は田んぼを通して培われた。人間というものが、田んぼを通して徐序に作られた。その結果として、読み書きそろばんという知育に進む。書物を読んで、もっと広く学びたいという人間が、登場した。もう一度、田んぼから出発する。身体を使い、食物を生産する。人間の生きる原点に戻ってみる。ごく当たり前の、生物としての人間というものを身体で感じることだ。それは、一日田んぼ体験というようなことではなく、その田んぼでお米がとれなければ、食べるものはない、というくらい真剣にやらなければ得るものも少ない。