小沢氏強制起訴
東京第5検察審査会が、「起訴相当」を審査した。日本の政治状況を11人の普通の人が大回転させた瞬間である。検察というものの信頼が、が大きく揺らいでいる中で、起こるべくして起こった国の方角まで変えてゆく、大事件である。なにしろ民主党の国会議員が、強制起訴されるかもしれないという中でも、200名総理大臣にするべきだと考えた人である。それを普通の人に任せた結果、裁判にかけるべきであると判断した。日本の司法制度全体がおかしくなっている。「市民参加」この考え方の扱いを間違っている。検察が起訴出来なかったのは、証拠が不確かで、起訴したところで有罪に出来る見込みが無かったからである。専門家の2度にわたる判断である。所が、普通の市民にしてみると、犯罪があったとせざる得ないという状況に見える、ということである。この事件は今後裁判にかかり、判断がされる。有罪には出来ないだろう。怪しいだけでは無罪である。
裁判員制度というのも、裁判に素人を参加させる制度である。間違った制度である。裁判というものは、怪しいは無罪である。生活感覚では怪しいは有罪である。この怪しいということが、裁判の有罪と同様に、政治生命を断つことになる。あの人ちょっと変だというだけで、いじめが起きたりする。付き合わないことにする。社会ではそれを差別主義者だとか言われるより、あの人ちょっと変わっているからな、仕方が無いよ。ということで当然のことと受け入れられる。君子危うきに近寄らず。小沢いじめが起きたというような現象と言える。一方その対極にあるはずの、正義の象徴であったはずの特捜検察という、専門家中の専門家が実は事件をでっちあげようとしていた。という仰天するような怖ろしい事件が起きた。制度疲労が起きている。司法専門家が社会感覚を無くしたから、裁判員、あるいは検察審査会、という素人の判断を加えた方がいいとなった。この改変は、問題を悪化させるばかりである。
市民参加が何でも正義ではない。たとえば高級官僚がやり玉に挙がっているが、そのやっていることを素人が、変わることなど出来ない。審査をすることもできない。またそれだけの専門性を持って仕事をしてもらわなくては困る仕事である。司法でも、官僚でも、確かに問題は起きている。その資質に相当問題がある人もいるだろう。その意味では、どの分野でも同じことである。いつの時代でも、完全などということは求めないほうがいい。問題は指摘しあい、微調整する。司法に問題があるのは事実である。裁判官も検察官も警察官も人間であり、特別ではない。だから犯罪的行為をしてしまう人はいるし、組織が腐敗することもある。一言でいえば、不可侵の権力を持つことが間違いである。絶対権力は腐敗する。常に監視の目がある。これはお互いの為に、必要なことである。検察審査会でも、裁判員でも可視化出来るだろうか。
全面可視化である。まずこれを徹底する。それにも問題はあるだろう。しかし、最近起きているような、制度疲労的問題は減るだろう。密室化することが、問題を深刻化させる。疑念も膨らみ、結局審査会での疑念は不起訴不当まで行った。もし可視化されていたら、審査会で検察の尋問などが確認出来たら、石川被告や、大久保被告の、生の尋問が見れたら、また違った判断になったかもしれない。怪しいということで、11人の市民によって、小沢氏の政治生命は絶たれた。小沢氏を指示する、多数の国会議員も大きく影響を受ける。日本の政治状況すら変わるだろう。民主主義の何たるかを理解しようとしない、小沢的政治手法は無くなるべきだと思っている。その意味では、悪い訳ではない。しかし、こんな制度悪の結果、人間を葬り去るようなことはあってはならない。サイコロで日本の運命を決めるような事はあってはならない。