理解できないこと
世の中で起きている事には、まるで理解できない場合がある。そういう時に、どう判断してどんな態度を自分が取っているか。むしろこんな時にこそ、自分の事がわかる。世間は今時の若いもんは、どうにもこうにもならんとというのが、理解できない時の普通の態度である。逆に、若者のへんてこりんを全て受け入れてしまう。と言う態度を取る人も居る。ほとぼりが冷めたので、書いてみたいのだが、服装の乱れで騒がせた国保選手の事を考えた。オリンピックで上着をズボンに入れないで乱れていると言うので、えらく顰蹙を買った人である。テレビのニュースではどうでもいいようなこんな事が、映像向きで盛んに流れた。今度は謝罪会見で、「スイマセーン」と言うのが顰蹙を増幅させて、競技に出さすなと言う声まであったそうだが、再度まともな謝罪会見をやらせて、何とか沈静化した。
ファッションと言うのは、おかしなもので今までの世代に理解できないから、若い人はやりたがるわけだ。枠から出る。一匹狼でいたい。新たな群れを作る。下着は裏返しに着た方が、縫い目が気にならない。こう言った人が居た。どちらかといえば、こういう感じが好きだ。でも裏返しにして着てもわたしの鈍い感覚では、同じことのようだ。プロ野球はユニホーム。人気稼業の割には保守的。もう少しプロスポーツ選手らしい、国保選手でも着れるような、服装があったほうがいい気がする。野球がサッカーに遅れをとっている姿に見えてしまうのだが。野球選手の服装は、どこかノスタルジックな感じがある所に、アメリカの歴史観が反映している。新庄選手の奇抜なアレンジでも、この感覚は突破できなかった。この甲子園の高校野球に要求するような、高校球児の健全イメージ。案外日本人の感覚に適合しているのである。ここはいい加減に変って欲しい。
イスラム圏の女性の服装規定は厳しい。服装がイスラム国家の姿を現している。そういう意味では日本人は、制服が好きな国だ。支配と服従の残存。見た目で判断がつくようにしないと困る社会。私はほとんどの場合、自分なりに普通の格好である。モンベルのものが多いい。着慣れて実用的である。汚れることを前提にいつもいる。農作業をはじめるか、いつ絵を描き始めるか、自分でもわからないから、何でも始められる格好でいつもいる。そのまま大抵は出かけてしまうから、たぶん場面によっては顰蹙を買っているのだろう。農家の若者がつなぎの原色系を着ている。あるいは新規就農者は、もんぺのような女性や、作務衣を着ている人も居る。まあそれ風にという見て分かる姿。国民服とか、人民服とか、合理性はあるのだろうが、金太郎飴みたいでやはり薄気味悪い。国保選手は、制服をはみ出て目立ちたかった。若干、主張の場所を間違ったが、若者では普通の事だ。これが私の理解できないなりの、感想。
問題は、謝罪会見の方にある。簡単に「スイマセーン」とやった所に、もう一つの残念な感じがした。どうせ説明しても上手くはいえないだろうが、ここぞと自己主張をするチャンスだったのにもったいない。と思ってしまった。あの奇抜な自己主張だって、あのくらいいいだろう。そういう支持者は必ず居る。やった自分を信じたほうがい。オリンピックにこだわるのは、格好悪いと思っているのなら、そう言えば良かった。言えない空気。言えない自分。言わせない世間。どちらかといえば、そっちを突破しなければよくならないのが、日本社会の真綿首。異物排除の世間。異物であるといわれようが、世間はこういうものだと、上からいわれようが、怖いものなくありたい。世間迷惑なやつという理由なき圧迫は、押しのけたい。