水彩人展作品評

   

水彩人展は都美術館での開催団体の中でも、入場者数ではトップの方である。期間中の入場者数は1万人になる。出品者86名。展示総数130点である。多くの方に見てもらえると言う事は、とてもありがたいことだ。今回の展示では、水彩画の透明感ある発色の特徴が一番表現できる、20号以下の作品を、100号を超える大作に並べて、どのように見えるかと言う事があった。小品を3点並べると言う事が、作品を味わうと言う意味で、とても効果的であることが分かった。

同人作品の感想をメモしておく。こう言う文章を公表するから、怒られるのであるが。

橘史郎「冬枯れの地」色の濃度が最近強まっている。作品に対する執着がとても強い。表現と言うより、対象に対する自問自答。繰り返しなぞる事で、均質化が起こっている。顕微鏡で見れば、すべては同じと言う意味で。演出を極力行わない平板が、主張といえるのか。もし私がこの先を描くとすれば、一部を残して、大半を消し去るだろう。あるいは、全くの異質のものを並列する事で、そのものの意味を確認しようとするだろう。

郡司宏「無世代」壁である事と空間である事の狭間。以前は面壁9年と言う趣で、その強固な材質感で、見るものを突き放していた。拒絶感が強かった。壁はいつか越えられるもので、壁の中に空間の兆しのようなものが現れ始めている。それは線の集積の変化にも表れている。線の均質から、太さの変化の強調。人工的な突き詰めたような緊張感に、ゆるみが表れている。それは受け入れる心を感じる。と同時に、妥協した心であるのかもしれない。許しと言うか。甘えと言うか。和解というか。難しい所である。

大原裕行「奏」作品の展示が失敗している。悠々と広い空間が必要な作品である。狭い所に押し込められてしまい、兆している厳しい品格のようなものが、見過ごされるだろう。対面する緊張感がとても強まっている。掘り下げの方向が、自分に向っている。上部のラッパが、面白すぎて切られている。全てに絵画的面白さが特徴ではあるのだが。その行き所に戸惑いがある。面白いと言う事が自分であるのか。面白いとは絵画であるのか。新しい所で苦しんで何年かたった。このことは現代と言う時代の姿でも在る。まさに生の絵画世界に直面して制作している。これは苦しいことであろう。

川村良紀「光さす森」奥行きの深い作品である。そして美しい。絶妙に美しい。この深い青は精神の放つ光。その世界観の純度の高まり。何故こうした絵が生まれるのだろう。完成に近づいた気がする。絵と言うものの不思議。絵画という物でしか伝わらない世界。こうした絵に出合うと、絵画が他の方法では変えがたい、表現である事を知る。それにしても展示の場所が悪い。悪すぎる。

栗原直子「暮れゆく海」あの船はどこかよその国に行く、汽船であろう。まさに暮れて、去ろうとしている。寂しい船である。とても哀しい船だ。絵と言うより、一つの童話のようだ。童話ではなく、寓話か。言葉にすれば詩情というようなものになるのだろうが、私にはさようならと、あの船からハンカチが振られているのが見える。絵と言うのはこういう物でもあるのだろうか。ともかく切実なのだ。このようなとき、あの船は絵としてはいらないだろう。などうと言うのは、馬鹿げた指摘だろうか。

秋元由美子「Si.......」(長い意味不明の外国語)和服、帯び、が舞っているのだろう。題名と同じく、私には意味が不明。模様的図案。既にある作られたものを構成すること。髪の毛だけが、異様にある。多分作者には当たり前の美しいこと。独特の耽美的幻想世界。多分そうではない。この解釈は正しいようで間違っている。演出的なものでなく、、体質的なもの。デロットした美としては、毅然として揺るがない。強さが骨格となった異質の弱さ。分かりにくいが、そのらしさは、徐々に明確に成っているとはいえる。

小笠原緑「かたられる水・ムーラン」面白い柔らかさである。攻撃性がとても薄らいだ。あの水溜りを思わせる、あるいは地球を思わせる、甘い、ゆるい、丸い山形の形は、実はこの作家の本性なのかと思わせる。何10年も前にもあったゆるい、鈍い形である。力が抜けた良さ。と見えるが、本意と言えるかどうか。追求法を変えたのか。迂回路を通ろうとしているのか。まだ、水の作品としての意味が尽くされない。作品として云々より、水と題する意味合いが、あるいは作品の濃度としての深まりは、空回りしているのかもしれない。能動から受動へ。

小野月世「花降る日に」美しい花嫁の姿に見える。表情の美しさが格別である。人間の表情が板についてきた。周辺の省略法、あるいは画面構成が手馴れてはいるが、もう少し工夫が必要。周辺を抜いてゆくだけでなく、抜きながら却って力を入れて描く絵具の濃度が欲しい。こういう常識的な批評の場違いな事は、もちろん作者は充分心得ているに違いない。足を不思議に顔以上に描いている。こんな風に足にこだわって描いた作品はあっただろか。一種のフェティズムを感じる。こういう上品で、耽美的と言う、辺りが人気の秘密か。

青木紳一「風韻」Ⅰ・Ⅱ宝石の美しさ。水彩絵具顔料の美しさ。素材の強調。これほど色そのものの美しさが表れている作品と言うのは、少ないだろう。あまりの美しさに魅了され、ある意味慣れてしまう。ここからの判断が出来ない。美しさに作者が隠れているともいえる。美しさの向こう側の何か。構成として横に突き抜ける、構図。これが連続を感じさせる。連続は色彩の効果を高めて良いのだが、上下への何らかの破調が必要では。それにしても、2点の折れた展示はまずい。

奥山幸子「忘れられた刻」水彩画の最大級の大きさである。これほど大きな水彩画は見た事がない。しかし、大きい事はいいことだとは言えない。以前も感じたのだが、大きくなればなるほど、細密度を増してゆく必要がある。それが欠けている。細密である事を強調するための、この大きさのこの作品の主張ではないか。望遠鏡と、虫眼鏡の混在。ただただ大きいと見られることはとてもマイナスである。

松田憲一「枯」水彩画らしくなった。油彩画とは隔絶した絵画観に到っている。水彩画の哲学とでもいえるものが表れた。やはり水彩人の考える所は間違っていない。本来のこの作家の力が出ている。とてもいい作品だ。力がこもっている。と同時に、寂しい。きわめて寂しい世界。わび、さび、はいいのだけど、この作家の野心に満ちた、強情さのような堅固さはどこへ消えたのだろうか。この人、実に正直な人なのではないか。日常のようなものが、そのまま表れてしまう。作品としての表現ではなく、ありのままが出ざる得ないような、生き様のようなものなのか。

疋田利江「二月」しみじみとしている。絵であろうとする意志、反応しようとする感情。せめぎ合っている。絵であることを越えようとする何かが動いている。この画面でどれほどのものが、捨て去られているのかと思う。絵になるものにこだわらない。絵になるものを拾わない。にもかかわらず、絵になろうとする意志。絵画というものが、実に厄介である証拠のような作品。ああすればいいのに、やらない。やれない。それでも描かれ、次に行こうとしている。荒さが目立つ。整えるところが必要。

松波照慶「光と隔たり」理科の実験のような題名。絵画思考法の研究のような作品。と同時に視覚的な美しさを追う作品。この隔たりが実に面白い。面白いのだが困る。理屈っぽ過ぎる美人のような、困り者の不適合。見るものを酔わそうとしていながら、冷静すぎる視線。人間不在と情感過多が混在する曖昧、難解。しかし、こういう矛盾が矛盾のまま表現されるのが、絵画のあり方。その意味ではいかにも絵画の世界らしい混沌と言える。

三橋俊雄「しだれ桜」絵空事にしようとして、初めて出会い、向かい合う桜。桜という物と向かい合うこと。絵と向かい合うこと。避けていても向かい合わざる得ない何か。この色を美しいとする者の、絵空ごとの約束の上での共感。この色汚いとするものは三橋美学を受け入れがたい者だろう。絵空事と言う決まりの上で受けれれば美しい。哲学風真実を見たいと成ると、汚く見え始める。この隔たりは、漂い、近づき、期待させ、裏切り、その危なそうな何かが、おそるおそる出されている。

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