政治家の定年制
自民党は参院比例区の70歳定年制を廃止するようだ。あの中曽根元総理、宮沢元総理にすら定年を建前に引退を押し付けたにもかかわらずだ。麻生政権になって、全てが先祖返りしている、らしい。そもそも、自民党が定年制を作った意味も、追い出すための手段だったのかもしれない。今度の変更は何を意味するのか、どうしても加えたい70歳以上の人がいると言う。片山虎之助氏が焦点のようだ。山本一太氏のブログに、面白いことが書いてあった。政治生命をかけてブログを書くと言う決意だ。自分のたち位置をブログで表現しようと言う事らしい。それが、肝心な時の抑止力に成るというのだ。例えば70歳定年について、自民党執行部批判を痛烈に書いている。そうしたことに対する、自民党内部の圧力という物が、あるのか無いのか、このブログをチェックしておくと良い。出来れば、コピーしておき比較する。何が書かれ、何が消されるのか。
定年とはなにか。散々養鶏業60歳定年を発言してきた。それは60歳以降はもう残り時間も少ないのだから、生れてきた自分の、純粋にやりたいことを遣り尽す。そういう思いだった。だから、70歳でも政治をやりつくしたいなら、やればいいだけだ。自民党の比例区に入れてくれと言うような、不純とは少し意味が違う。ただし、歳相応と言う事は大切だと思っている。今の今こそ、全てである。59歳8ヶ月の今を自覚して生きたいと思う。農の会では代表は2年交代である。水彩人も2年交代である。私がかかわり意見が反映できる、組織ではいつもそう言う事を主張してきた。それが出来ないような組織は、大体に民主的ではない。もちろん民主的が全てではないから、それでもいいのだが、次に送る仕組みこそ、その組織の本質を表す。と考えてきた。
名誉とか、権威とか、面子とか、そうしたものは純粋に生きる為には、障害になるだけだと思ってきた。やりたいことが充分にやれるためには、どうでもいいことは出来る限り、こだわらない。政治家からそういう要素をすっかり取り除いけたら、どんなに良くなるかと思う。自分を捨て駒に出来るような人材が、どれだけいるかが、その組織、国の力量だと思う。日本人はそうした美学の民族だったらしいが、どこで変わったのか、変わらなかったのか。大体道徳観念と言うのは、不足部分こそ力が入る。儒教の道徳心が言われれば言われるほど、儒教国の賄賂体質が見えてくる。孔子もきっと耐えられなかったのか、など思いたくなる。本質武士道的でなかった日本人。いさぎの悪い定年廃止。
昨夜、100歳のおばあさんのお通夜に伺った。斎場の入り口におばあさんの写真が飾られていた。さすがに、立派な写真だった。幸せそうな家族の写真が並んでいた。100歳まで農家を支えられたに違いない、姿だった。そう有りたいとつくづく思った。舟原でもそうしたお年寄りが見事に農作業を続けられている。別段当たり前のように、畑に通う。畑でしばらく見ないなと思ったら、葬儀の回覧が回ってきて驚く。なぜ、あんなに元気に働かれていたのに。ある日、急なことに亡くなられてしまう。風景の中の点描であった姿が、自然にそういうものとして存在した姿が、失われてしまう。寂しいことだが、出来れば自分も学びたいと思う。