冤罪とでっち上げ
防衛大学の教授の痴漢疑惑事件の無罪が最高裁で確定した。満員電車には乗れないと発言した、弁護士が居た。何かの間違えでそうした事件に巻き込まれたら、もう逃れようもない。こうした事件で著名な事件は植草一秀元教授である。本人は冤罪であると、一貫して主張したが有罪となった。そして、再犯までして逮捕された事件である。報道からの情報しか持たない一般のものとして、どう判断したらよいか、わからないままである。本人が否定したままで、真相がわからないという事は、罪も償われていないと言う事なのではないか。こうした時の報道情報というものが、どれほど信頼できるかにある。裁判官は自分が扱う事件の報道記事は読まないようにすると言う。世論の動向などが客観的判断を妨げる可能性がある。陪審員制度が始まる。裁いて欲しい裁判になるとは思えない。
専門家が客観性を維持するために、訓練し、努力して、最善を尽くす。それでも判断できないような、意見が割れる事件が相次ぐ。こうした社会状況で素人の陪臣員が正しい判断を下せるのだろうか。しかも、最近の報道はエンターテイメント的感性である。用心深さがまるでない。興味を引く様に盛り上げて作ってしまう。舞鶴の女子高校生殺人事件では容疑者の扱いは、人権侵害ではないだろうか。もし、犯人でない可能性を考えると、怖ろしいものがある。世論というものが、人為的に形成される恐れがあるものだ。もし、特定の人物を社会から抹殺するために、罠を仕組むことはありえないか。その人物を殺すようなリスクを犯すより、卑劣犯として、落とし込むと言う事はありえないか。小沢代表に対する西松事件に於ける、検察の取った行動は、何だったのだろうか。麻生政権の圧力とは思いたくないが、そうした謀略の意図があれば、出来ると言う事は示している。そんな謀略が起こり得ないようにするのが、報道の使命だ。
健全な社会とはこうした「見えない力」が、一切働かない社会である。見えない不安の存在が少ない社会であろう。公明正大であり、全てが白日の下で行われる社会である。そのために日々注視して行動する必要がある。公正さを支えるために、とくに、とくに報道は最大の注意を払う必要がある。現在の報道で一番失われているのは、事件のその後の報道である。カラスが南足柄で死んでいた事件。全国紙では結局この事後報告を見つけられなかった。神奈川新聞によると、全くの原因不明が報告されている。視聴者読者が興味を引きそうな時は、飛びつく。しかし、その後については結論が出ても報道すらしない。これが結果、垂れ流し報道となる。朝日新聞社襲撃事件のガセネタ掲載事件。週刊新潮は誤報を認めたが、自分も騙された被害者ぜんとしている。
高橋洋一教授の日帰り温泉施設、脱衣所での時計置き引き事件。私には真相は分からないが、なんとも不思議な事件。冤罪の可能性も考慮に入れざる得ない。有能すぎる人が、愚にも付かない行動を取ることもある。それにしても、なぜこれが警察情報として外部にもれたか。普通この程度の事件で警察からの報道発表はない。著名人故。大麻事件で大きく取り上げられる、運動選手、タレント、大学生。犯罪の抑止的影響。もしも、高橋教授を気に入らないと考える力が、付け狙う。そして陥れる。さらに気に成るのは、その後の報道規制。真相は別にして、対応には何か見えない意図が働いていそうだ。問題はその扱いではないだろうか。本人が犯行を認めていると言う、この部分だけ警察が出す。その後の経過は一切の報道なし。何やらおかしな社会がにおわないか。