もがりと石文
「おくりびと」がアメリカのアカデミー賞で評価された。アメリカ人も変わってきた。こう言う映画を評価するようになった。「スリル、スピード、サスペンス」だけでもなくなってきたことは良いことだろう。この映画の感想は以前書いたので、今回は書かないが、この映画の後、「もがりと石文」の事は何度となく、反芻するように考えていた。いずれも縄文以来の日本人の死生観。父の死。母の死。長い時間大きな痛手になった。この肉体を痛められたような傷は、死ぬまで持ち越すしかないものとして、身体に残っている。死によって切り離される苦しみ。なんとも致し方ない。先日、もう20年も指導を戴いて来た、自然農法の石綿さんが27歳のお嬢さんを亡くされた。肺炎だったそうだ。真っ白になってしまった姿で、空白になったものは埋めようがないと言われた。その空いてしまった穴の深さ。「もがり」と言う事を考える。仏教とか言う思想的なものが渡来する前の世界。
死者は現世から離れる前に、しばらくのもがりの期間がある。縄文人の埋葬形態などからも推測される。本来的な日本人の死者の位置づけ。死者はどこかに行ってしまうのでなく、自分を見守ってくれている者になる。そして、年に一度は戻ってきてくれる。と言うような意識。生きる者と死んでゆく者が別れを確認する期間が存在した。それは何年もかかることもあるだろう。特に自分の子供との別れは、又別で、自分の家の前に子供を埋葬する。様なこともあったらしい。もがりは死でも、生きているでもない、死んでしまった子供と残された親との対話の時間である。と書いたのは井上靖氏。幸いにそうした苦しみは味あわないが、弱い私などは父、母の死で、すっかり痛められた。そして、対話を続けてきた。何かにつけ、父親と相談する。思わぬときに母親の声を聞く。去って行ったのではなく、見守ってくれている存在。
今や、ぶっつけ初七日。こんな言葉に象徴されるように、死者との別れも、慌しい儀式として、過ぎる。せめて49日くらいは家に居る魂としての存在はあるはず。あっという間に、火葬に回される。少しも自分の体の方は、その準備ができない。現世が忙しすぎて、又日本人らしい合理主義で、死者との別れ方を、今風に改めた。合理化せざるえない姿は、昭和天皇の死が、年を越すようにもって行った努力に現れていた。死すら調整される。死を前にした時全ては等しくなる。道元の言う所である。土葬の記憶の方が、私には親しい。人が死に、墓穴を掘る。そして又埋めなおして、お墓を作る。山奥のお寺に生まれた為に、親しくそのことに接することができた。死者の墓穴は小高く盛り上げる。土饅頭とよんだ。一年が経つ頃、その小さな山がボコッと沈む。その時、「ああ何次郎さんも、仏さんになったなぁーこと」もう墓石をおいてもいいことになる。
「石文」脚本の小山薫堂氏によって入念過ぎるように、準備している「おくりびと」での石文は、父との和解。父と子を結ぶものとして用意されている。この石文の用意は、向田邦子氏の文章からヒントを得たという。映画を見たときこれは蛇足だと思った。少し、わざとらしいくないか。やりすぎたと感じた。私にとっては石文は最後にお棺の釘を打つ石。この石に様々な思いを託し、お棺の上に投げ入れて、土をかける。別れの心の石。石に託するもの言葉以上の、文字以上の奥深さ。石にしか託せない心の世界の存在。文字のない時代の、より複雑な奥深い心のありよう。ほんらい石文は石に刻まれた文字のことだろう。消えない印としての石文。永遠性。永遠と朝露のごとき生命。あのアメリカ人のなかに、おくりびとを見まもる心があることを確認できた。