コクラン
里山のランが消えた。これは私の子供の頃からの変化で、一番切実に感じることだ。シュンランとエビネこれがなくなった。私の子供の頃は、竹薮の淵や小川の周辺には、いくらでもあった。それは、普通の草で、確か、シュンランはじじばば等と呼んでいた。当時でも、タイッちゃんと言う近所の道楽者で通っていた、おっちゃんはシュンランの珍しい物を捜して歩いていた。長野のほうまで行って、100万円もするランを見つけたと言うような噂を聞いたことがあった。だから、ランが特別な草であると言うような意識はあったが、ともかく普通の物としていくらでもあった。較べるとしたら、今でも唯一いたる所にあるラン、モジズリの頻度ぐらい見かけた。私が暮してきた、57年と言う時間はラン科植物が取り尽くされてゆく、時間だったように思う。
里山ももちろん変わった、杉ヒノキの黒い山にすっかりなった。これほど日本の社会に長い先を見る力の不足していた証拠もない。緑の羽根と言う、小学生からまで10円を集めて、杉の植林の大切さが宣伝された。私も、赤い羽根よりも一段意義があると感じていた。もちろんよく理解していたわけではないが、そうして雑木林が黒木の山に変えられていった。薪炭の利用がなくなったのが、私が中学2年の頃、薪で暮していたのが、1963年を境に、プロパンガスに変わった。ガスの風呂は温まらないなどと、おじいさんは言っていた。しかし、楽になったことは確かで、大きくは叔父さんにお嫁さんが来たことを機会に、暮らしは変わっていった。それで、雑木山は要らなくなった。すると、すごい勢いで、杉ヒノキに変わった。今の笛吹市の山の中の事だ。
しかし、まだあるところにはいくらでもラン科植物があった。1966年に三つ峠で、アツモリソウの群生で昼寝をしたことがある。それは、わざわざ見に行ったのだ。高校生の仲間で、見に行った。その頃、どこにどんな植物たあるかを書いた本が出たのだ。それはあり難い事だった。その本を頼りに関東の山を植物を見に歩いた。しかし、その本が採集の手引きになると言う話を聞くようになった。その後その手の本は見なくなった。その本に載った、群生地は次々に珍しいランが消えていった。ただでさえ生育地を狭められている上に、乱獲が続いた。大学に行って、少し高い山に登るようになって、こんな所にはまだあるのだというぐらいになった。
実は、まだ小田原の周辺にもランはある。コクランがその一つだ。こんな地味なランでも場所を書けないのは、残念だがあることはある。他に、キンラン。これは案外目立つので、道端にあるときは、取られないうちに花が終わればと、祈るようだ。ギンラン、ササバギンラン、これらもある。シュンランやエビネ、あるいはセッコク等、あるはずだという場所を聞くのだが、見た事がない。それでもコクランがあった。実は葉とバルブをみて、ジガバチソウではないかと、期待していて、コクランと言う事を、高橋由季さんに教えてもらった。花が咲くまで、ずーと待っていた。取られないように、目立たないように、と思いながら、待っていた。いっそう家の庭にとの思いもあったが、今ある場所こそ一番と思い、待った。地味な花だ。そう言えば、昔はランの内に入れなかったような気がしてきた。ラン科植物は植物進化の究極の姿だそうだ。だから生きてゆくには、狭い環境条件が必要となる。まだ、コクランは自生している。