岸辺の世界観

岸辺が面白。川の岸辺、海の岸辺、森の岸辺、草の岸辺もある。自然との境に惹きつけられる。耕作地と耕作されていない場所との岸辺。耕作地に寄せてくる自然の岸辺。耕作地が放棄されて、自然の中に飲み込まれて行く岸辺。寄せては返す岸辺。
川の流れに過ぎて行く時間を感じる哀れがある。過ぎ去り二度と戻ることのない世界。岸辺は寄せては返している永遠の姿。時間は流れて行くが、戻っても来る。命の繰り返される永遠。絵に描いている岸辺は海の岸辺であり、草の岸辺である。
変わっては行く。戻って行く。人間の耕作という営みが自然を改変するが、また自然はその人間の営みを飲み込んで行く。この境界の世界に絵がある。始まるものがある。終わるものがある。それはすべてひと連なりになって、寄せて返している。
時代の岸辺もある。今は次の時代の岸べにたっている。人間の暮らしの岸辺。岸辺は自然との折り合いをつける場所。変わって行く暮らしもある。変わらない暮らしもある。人間が生きて行くとは、変わって行くと言うことを受け入れると言うことかも知れない。
耕作放棄地はまさに自然の岸辺である。美しく整えられた耕作地も、放棄され自然に戻って行く。この戻り方が岸辺の様相である。自然との境界地。日本の耕作地は戦後過去最大になった。そして、年月が経過して耕作地は自然に戻って行く。人間の痕跡を寄せて返しながら消して行く、岸辺。
かつて食料を生産していた場所が。草むらと化す。まだ自然とは呼べない、なじみきらない自然の岸辺がそこにある。多くの場合、力の強い帰化植物がそうした場所を占拠している。誰かに連れてこられた異人さんのような哀れな岸辺。外国人の和服姿のようだ。
それもいつかはなじみ、新しい自然になる。不自然な自然が、いつかは自然そのものになる。それまでの不協和音を伴う自然が岸辺の情景。人間が生きていると言うことは、時間の中にいる。いつも少しずつの違和感を感じながら、時代になじめず岸辺に立っている。
立ち尽くし、人柱のように岸辺に立ち尽くす。時代の時間に立ち尽くす人間。この今に生きている違和感こそ、人間が今日を生きると言うことになる。誰にとっても日々生きると言うことは新しい体験になる。岸辺の情景。そこにある戸惑い。違和感。そして微かな希望。人間はいつも時代の帰化植物。
どこかから来て、どこかへ去って行く。一時の生きるという時間の岸辺。絵を描くと言うことは、この立ち尽くした時間を捕らえようとする作業のような気がする。空しい作業であり、唯一の生きるという人間の作業。歴史に残された絵画はどれもがその時代の岸辺の情景である。
絵として世界を見ると言うことは、この世界の岸辺を、ある断面として受け止めて、画面に表す行為なのだろう。私にそれが出来ているとは言えないが、そうした絵が世界には残されていると言うことは分かる。このコンピュター革命の進んで行く岸辺にどんな情景があるのか。
コンピュターという帰化植物がどのように根付くのか。そうではなく、今ある自然を覆い尽くし、淘汰してしまうのか。岸辺では静かにその厳しい深刻な戦いが行われている。革命の岸辺。芸術は予見し、先行すると言われるが、そうした芸術は見当たらない。絵でないことだけは確かだ。
人間の感性を越えたような、新しいコンピュター時代の幕は開いている。私の反応は取り残されて行くものの、嘆きのようなものかも知れない。きしみのようなものかも知れない。わずかな農耕者としての、希望があるだけかも知れない。農耕は自然との関わりかた。
絵画の時代は終わりを告げ、描くという行為だけが、生きている実感を伴う。ここには喜びがあり、充実がある。私絵画である。描かれた絵画よりも、描くという行為が、芸術としての行為になる。行為と言っても自分だけの問題になるから、表現とは言えないかもしれない。
描かれた結果としての絵画は、ネット空間に置かれる。ものとしての存在感は薄れ、映像として残されて行く。ものとして存在する絵画とは別物化するかも知れない。それともものとしての実感が今以上に重視されるようになるかも知れない。そのときに絵画の意味は変わっているのかも知れない。
画集でも、美術館でもなく、ネット空間に置かれていて、必要とするものがいればそれを見に行くことになる。ネット空間に見に行くことだけでは物足りない人がいれば、現物の作品に出会いに行くことになる。そのとき作品はあるのかないのかは分からない。
私は絵を描いている時間が、生きる実感だと感じている。「田んぼをやるときは絵を描くように、絵を描くときには田んぼをやるように。」田んぼ作る面白さは自然との関係の面白さである。自然を予見し準備をして対応する。その準備の結果は収穫というものになる。
絵を描くと言行為には、結果とか成果とか言うものはあるのだろうか。良い絵を描きたいと言うことはないが、私が感じている岸辺の世界が絵にあるとは思う。この岸辺の世界が、人に伝える価値があるとまでの確信はない。極めて個別的な、個人のつぶやきのようなものだ。
見ている世界の岸辺。誰もが見てはいるものだろう。特別なものでもない。特別な表現でもない。ありきたりのものである。特に美しいというような美術とは明らかに違う。ただ眼に映った個人的な世界である。意味があるとまでは考えて居ない。
自分の確認のための絵である。行為の確認の絵である。絵を描くという行為が、より純化されたものであるのならば、画面という結果は入らないのだろう。しかし、こうして昨日描いた絵を目の前に起きながら、この文章を書いている訳で、自分の行為の確認のようなものにはなっている。
自分の行為の深さを描かれた絵で測っている。卑しいことではある。つまり乞食禅と言うことだ。なにかが欲しいから座禅をするほどくだらないことはないはずだ。座禅はただ座るのであって、何者かになるために座っているわけではない。ただ無念無想に時間を費やす。
このむなしさに耐えがたくて、絵を描くことになった。自分が何かを得たい人間だったからだ。そんな座禅は卑しい、良くない行いだから、座禅から離れた。座禅から離れて絵を描く行為を只管打画として続けてきた。絵という結果がある修行などくだらないものと言えば言える。
しかし、そうとしか出来ない情けない自分という自覚がある以上。そう生きるほかなかった。何も得られないだろう覚悟で、ある意味只管打画を続けることにした。何も考えないで、絵を描くという行為になりきることを務めてきた。無念無想で、腕で描く絵画である。
そしてその絵と毎朝向かい合って、2、3時間ブログの文章を書いている。以前は1時間だったのだが、いつの間にか時間がかかっている。これは頭を使ってかいているのだろう。絵を見ていると自分が何をやっているのかがある程度分かってくる。
方角が見えることもある。そうして行く先を想像する。しかし、絵を描くときには、できる限り何も考えないように描いている。頭の中にある記憶に反応するように描いている。こんなやり方に意味があるのかどうかは分からないが、田んぼをやることで食料は生産される。絵を描くと言うことで生きていると言うことが得られる。日々の一枚である。