水彩紙は白である。

水彩紙は白である。白ではあるが、意思のない白である。白い背景に白に反応しながら着色して行く。どうしても白地と対照して色を見てしまう。白い紙の色は絵が描き進むにつれて、失われて行くものである。白地に赤のはずだったものが、青色や黄色や緑色に取り囲まれた赤になる。白地に赤だったときの、赤色とは全く異なる色相を見せることになる。
絵を描いているときには実は最初に置かれた赤は、白地に置かれた色と感じて見るのでは、できあがりの絵を違う方向に進めることになる。この赤は絵が進んだときには、白地に置かれたものではないと、想像してみなければならないものなのだ。これが難しい。
当たり前すぎることなのだが、この感じ方の絵が完成したときの想定で見ることが意外に難しいもので、ついつい塗り残されている白地との関係で色を見てしまいがちなのだ。できあがった絵から、最初に塗った赤も感じなければならない。そうしなければ、その赤は美しく塗ることが出来ない。
この白地の影響から抜け出るために、ずいぶんと遠回りしたような気がする。それほど色は白との関係で美しいからだ。昔の日本画では、地色との関係で描かれたものが多い。水彩画の場合、着色層が透明なため、塗られた色は白との調和がおのずと生じている。透けて見える地色の白が色のなじみを生じさせ、画面へ良く食いついた感じになる。
そのために、この最初の紙の地色の白を反映させた、浅い一度塗り程度の着色層だけで描かれる、水彩画の多くが、こんな状態で仕上げられるとすると、下絵のような状態になる。確かに一度塗りの水彩絵の具の色の美しさは、どんな絵の具にも勝るものになるからだ。それは水彩絵の具は色の美しさが特別だからだ。顔料の大きさが小さいためにおこることだ。
ところが「私絵画」ではこの絵の具の美しさが大きな障害になる。一度塗りの地色の白を反映している色は、色見本のような個性のないものなのだ。この個性のないある美しさから、抜け出ることが出来ないと塗り絵に終わることになる。水彩画の色見本に沿ったできあがりまでにしか進めないことになる。
そのために水彩画は自己表現から離れた絵が多くなる。描いている自分というものの表現とは違うことになる。それでは私絵画とは違う。私絵画は自分の問題なのだから、客観的な美しい絵とは別物なのだ。自分というものの色合いは、それほど単純な、色では収まりきれないもののはずだ。絵の色とは、色見本とは異なる。
一度塗りの色相の美しさも、周囲に色が埋まってくると、別物に見えてくる。そこで、地色の紙の白が透けて見える、ごく薄い着色層の透明な色だけで、絵をまとめて完成させることになる。紙の白の反映によって、統一感が自然と生まれるからだ。ところがこの普通に水彩画と呼ばれる技法が、私絵画にならない。
その理由は、やはり色の表現に幅がないためだ。画面には統一感は出るのだが、その浅い世界感から抜け出ることができない。白地を塗り残した描き方と同様の限界が生まれる。もちろんだからそれが良くないと言うことではない。そういう目的でそういう絵を描く人もいる。
芸術としての絵画は自己表現である。美しいだけでは、満足いかない。物足りないのだ。紙の白地はすべて埋め尽くしたい。もし白が必要であるなら白を塗りたくなる。意志の反映をしたい。薄い着色の部分があれば、それと対比できるさらに濃い着色層で描かれた部分が必要になる。
世界のある断面の表現では嫌なのだ。薄い着色層だけで描かれた世界観。白地の中に一部着色した世界観。それも一つの世界観であることは理解できるが、この単調さでは、私の世界観に近づくことが出来ないと言う感触が生まれるて来る。
私絵画においては、最も薄い着色層から、最も濃い絵の具を感じさせるような厚塗りの部分までないと物足りないのだ。それは画面をすべて塗りつぶさなければいられないという思いと変わらない。画面のすべてに自分の足跡が残されていないと、我慢が出来ない。
こうした私絵画の思いが、水彩絵の具というものに適合している。油彩画の表現では私には単調なのだ。水彩絵の具の表現の多様性を追求して行くと、油彩画では表現不可能な多様な表現に出会うのだ。例えば、水彩絵の具の薄い色相を、10回重ねて描くのと、11回重ねて描くのは違うものが現われる。
グラッシ技法を使うことが多いのだが、油彩画よりもはるかに微妙な重色が可能なのだ。水彩絵の具が、油彩絵の具よりも細かな顔料で出来ていると言うことと、水で溶くと言うことで、薄い着色が可能になる、という絵の具の特徴がある。
その重色が同じ色で行われるだけでなく、様々な色の重色になれば、その多様さは忽ち無限と言えるものになる。その重色する絵の具の濃度の違いも、的確に反応してくれるのが水彩絵の具である。濃い色の下地に、薄い色をかけた場合と、その逆ではまるで違ってくる。
しかもこの無限が変化が、短時間の内に、自分の体内時間に呼応した状況で行うことが可能な表現になるのが、水彩絵の具である。自分の描く速度に適合してくれる。油彩画であれば、こうやってみたいと思っても一週間待たなければならないようなことになる。
たぶん油彩画の表現よりも、倍以上の表現幅がある。ところがこの水彩絵の具の可能性は、私が見つけたと言いたいくらいのことなのだ。過去の水彩画を見ても表現は単調なものばかりだ。複雑な絵画表現をする、水彩画は、実に少ない。水彩画の技法はまだ切り開かれていない。
その理由はそれほど複雑な技法になるからだ。複雑すぎて、2,30年の経験では見えてこない。こうした水彩画技法を自分の小脳的反応で描きこなすことが出来るようになるためには、毎日描いたとしても、50年もかかるのではないかと思う。もちろん天才であれば別だとは思うが、並みのものが努力で乗り切ろうとすればそういうことになる。
最近その水彩画の技法で自由さに近づいてきたという感触はある。こういう方法あるのかという発見を毎日のごとくしている。水彩画の多様すぎる表現に、戸惑っている。一体自分の世界観はどの方法が適合するものか、体感するための日々である。
いよいよ水彩画を描くことができそうだという感触はある。この複雑で、変化の大きな技法を、小脳的に、反射的に駆使することが、できるようにいくらかなってきた。50年かかったという気がする。諦めないでよかったと今は思っている。あと24年ある。水彩画の無限をわがものにしたい。
水彩画の感触と、即興性に魅了され、にこだわって進んできた。その結果水彩画表現というより、絵画表現の無限に出会った気がしている。絵を描く時間感覚である。一日で描く。その一日の自分を出し尽くす。墨絵であれば、1時間ぐらいだろう。油彩画であれば、1か月ぐらいだろう。技法の持つ時間がある。
水彩画の薄めの着色で重色できる時間は、風のあるところであれば30分ぐらいだろう。16回重ねるとして、8時間である。16回重ね塗りができれば、たいていの場合は何とかなる。筆触を残しながら重ねたいという場合であれば、8時間で4回ぐらいだろう。このぐらいの速度が、一日一枚描く速度である。
この一日の気持ちの維持で、一枚の絵を描くことが、ちょうどいい。ある意味即興性の絵なのだろう。自分の中の記憶の維持が、一日ということかもしれない。一枚の絵に描く世界は漂っている。これからどうなるかは不明だが、今は水彩画の一日で描けるという速度と、表現の多様性が自分と相性がいい。