日本の停滞は人間力の低下による。

日本はアベノミクス以来長期停滞に陥っった。アベ氏は祭り上げられた人間で、日本の右翼的利権集団に利用されただけの人だった。この木偶の棒内閣が長期に続いたことが、日本の生産性を極端に低下させたのだ。そのアベ氏を国葬にするような自民党なのだから、日本の停滞も止むえないところだと思う。
日本を経済先進国にするという方向性はあった。そのために一番必要なことは教育だと言うことは大方の人は意識はしていた。しかし、そのように考えながらも教育への投資をしなかったのだ。日本の職業訓練に関する財政支出は、GDP比でわずか0.01%程度にすぎず、米国の0.1%弱、ドイツの0.2%弱と比べて一桁違う水準とある。
この間大学の学費はうなぎ登りに上昇した。受益者負担が教育にまで言われたのだ。自力で大学に行くのは不可能な学費になった。この教育投資の後退が、日本人の劣化になったのだ。結局は人間力がその国の生産性を支えるのだ。日本を支えた人間力は百姓力である。百姓力は戦争の最前線で一番役立っていたと言うぐらい臨機応変のものだっだ。
日本人は江戸時代の鎖国社会の中で百姓的人間力を極めた。ただ明治政府はそのことに気付かず、武士が日本の精神であるなどと間違った思想を持ってしまった。武士道など暮らしに役立つ思想では、そもそもなかったのだ。この間違った選択が、侵略戦争になり、そして無残な敗戦に至った。
しかし、戦後の日本はアメリカによって、百姓に対して自由平等が与えられた。農地解放から、食糧増産に百姓が国土全体を農地に変え、日本の歴史上最大の耕地面積を記録したのだ。そして、その農業技術は優れたもので、生産性は当時の世界のトップクラスになった。
それを実現できたのは百姓の人間力だったのだ。石垣島に来て驚かされたことは、石垣島にはまだそういうすごい百姓力の人が存在していたのだ。離島が故に生き残っていたのだ。あらゆる事を地力で解決する覚悟のある人である。離島にはまだ自立して生きている人が居たのだ。
あらゆる農機具、農業機械が壊れたら、自分で直す人である。農機具屋さんに直して貰うなどと考えない人だ。自分の力で何でもやり遂げてしまう人。どうすれば田んぼが出来るのか。地形を見る力。風を読む力。水を制御する力。水路はどう作れば良いか。水はどこならば出るか。自然界を見て感じられる人だ。
石垣はどう作れば良いか。重い石を持ち上げるにはどうすれば良いか。猟はどうやればいいか。魚はどうすれば捕れるのか。植物はどうやれば食べれるのか。家はどうやって作れば良いか。何でもやり遂げようとするし、実際に暮らしのすべてを自分の力でこなせる人である。自給自足の力が残っていた。
まさに百姓力である。小田原にはもうそのような人は居なかった。子供の頃の藤垈にはそういう人が居た。井戸掘りなら曲がりのオジーに相談しようなどと、頼りにされていた。道普請なら定夫さんに出張って貰わねばならんめー。今年の麦は何時刈れば良いかよー。春男さん。
お寺の階段を直さねばならならんから、たけおさんにきて貰わねば成るめぇー。などと何でも部落の仲間内で解決したのだ。それは戦後社会の動力になりあっと言う間に食糧危機を脱したのだ。あの頃はまだ農業機械に頼っていたわけではない。人力農業である。
そして、高度成長期に入り、この百姓力が一気に工業化されて行く社会に利用されて行く。出稼ぎの人達が、工場労働者として優秀な人材として働くことが出来たのだ。こんな国は他にはなかったはずだ。その百姓達が今度は工業化して行く社会を支えて、日本は先進国に忽ちにして仲間入りしたのだ。
この素晴らしい人材を作り出していたのは農村という社会である。農村は人間力を育てる仕組みを持った社会だったのだ。イノシシが出た。クマが出た。自分たちで、どうとでも対応できた社会があったのだ。これが日本の常民の姿だった。
常民の育成を出来なかったのが、戦後の日本の学校教育だったのだ。一言に知育偏重である。受験勉強を教育だと間違ってしまった国である。産業に役立つ人を目指してしまった。その間違いに気付くこともなく、ますます作務教育から日本の教育は離れてしまった。人間力の無い人間ばかりになった。
その結果自分の頭で考え、工夫して何でもこなせる人間が居なくなった。それは自給農業の普及を35年間やってきてつくづく思うところである。何も出来ないし、何も考えようとしない人がほとんどになったのだ。なるほど日本の生産性が先進国最低になり、日本が先進国では無くなったわけだと思う。
農業に興味を持つ人ですら、人間力はほぼないとみなければならない。説明がなければ分からない人ばかりになったのだ。マニュアル本に従うことしかできない人。ネット情報を丸呑みしてしまう人。自然の全体性を推測して感じることのできない人。人間力が半減してしまったと痛感する。
もちろん私の人間力はたかがたかが知れている。かろうじて自給農業を再現できたのは、粘り強かったからだ。粘り強いことも百姓の特徴だから、自慢しても良いところとは思うが、ともかくできるまでやる根性だけはある。諦めることは無い。どこまででも繰り返すことが出来るつもりだ。
日本の生産性の低下の原因は、人間が役に立たなくなったからだ。頭を使うのは目先の金儲けぐらいだ。金儲け人間だけでは社会が衰退するのも無理はない。人間に重要なことは、好きなことを貫けるかである。自由に生きたいという強い思いがあることだ。
好きなことをやり遂げるための、人間力をどのように育てるかである。当然のことだが、好きなことをとことんやってみる以外に道はない。田んぼが好きであれば、田んぼを自分の身体でやることだ。教科書に従うのでもなく。ネット情報に踊らされるのではなく、自給農業に向けて、身体を使い創意工夫をすることだ。
30代後半に、5年間の間に自給を達成すると私は決めて挑戦した。そうして3年少しで成し遂げた。すべては結果なのだ。口先など何の意味も無い。人の言うことなど無視する方が良い。土壌の世界が見えるような想像力がなければならない。明日の天気が分るように自然を感じられなければならない。
自分の肌感覚で生きると言うことをつかめなければならない。そういう人間力は自給農業を独力で切り開く中で培われる。今では小学校で英語教育である。全く無意味な義務教育を行っている。重要なことはまず国語力であろう。自分の頭で思考できる言語力がなければ英語など何の意味も無い。
教育を産業のために行おうとして、本来必要な人間力教育から、人間を都合の良い材料のように考える教育に陥ってしまったのだ。学校教育だけでは人間力は出来ないと考えなければ成らない。どうすれば良いか。それが考えられないようでは、残念だが子供の教育も無理なのだろう。
だから私は自給農業を提唱している。これを実現しようとすれば、自ずと人間力がついてくる。ただ、人間力が弱い人間には自給農業の工夫と創意は難しいとは思う。難しいだろうが、これを覚悟して粘り強く実現できれば、人間力がついているはずだ。そうなればどのようにも生きて行ける。