ロスコ 触覚の絵画藝術

   



 ロスコの作品は視覚的なものを触覚的なものに変換して表現した藝術である。佐倉市郊外にあるDIC川村美術館にロスコを見に行った。朝一番に行ってすいている時間にゆっくり見ようと出かけた。京成佐倉の駅から8時50分発で、美術館行きの無料バスがあり、30分くらいかかった。美術館は9時半からである。

 驚いたことにバスは満員であった。京成佐倉から、JRの佐倉駅によって行く。と言ってもすでにほとんど座っているのだから、乗れたのは補助席の人だけである。かなりの人を残しての出発である。その理由は閉店セール中だからだ。12月末日で閉館と言われていた。

 それが3月末日に延期された。よくある閉店商法のの繰り返し手法である。次は美術館は閉館しませんになってほしいものだ。入場料は1800円、相当の入館者数だ。これなら、香港の物言う株主も、閉店セールを時々やれと今度は言うかもしれない。私がロスコを見ていた間も、人の波は途絶えることなく続いていた。

 帰りのバスで一緒になった人も、現代美術はなんも分からんが、なくなると言われたら、一度は見ておこうと思った。しかし、やっぱりなんだかわからなかったということである。そう簡単にロスコが分かるはずはない。私は何しろ、50年も分からないが続いているのだ。

 今回はどうしてもわかるつもりで佐倉まで足を運んだのだ。その覚悟が良かったのか少しわかった。それがまず、ロスコの絵は感触の視覚化ということだった。実はこの美術館には、ロスコが分かるための仕掛けがあったのだ。部屋に入ると暗闇なのだ。

 外の明るい空間を通り向けて、突然真っ暗の部屋に入る。足元を気を付けてくださいという、案内係の注意がまずあるのだ。足元真っ暗で見えない。転ぶ人もいるはずだ。転んでロスコの絵に、どんぐりころころでは困るわけだ。目の弱い私にはともかく暗い。

 この暗さではどうやって書いたかが分からないではないか。怒りが込み上げてきた。しかし、怒ってみたところで見えないものは見えない。この美術館の学芸員に文句を言おうかと思ったくらいだ。ロスコがこんな暗さを指定したはずがないだろうと。

 しかし、ともかく足元が危ういので、中央に椅子があるのでそこにたどり着いた。椅子に座って気を取り直そう。石垣島から飛行機で来たのだ。まあついでがあったのだが。ため息をつきながら、座っていると暗闇の中にボーとロスコの絵が浮かんでき始めた。

 この調子ならば、30分ぐらい座っていれば、もう少し見えるかもしれないと思い直して、じーっとわずかづつ浮かび上がるロスコの絵を見ている。いつの間にか座禅をしているような気分になっている。そうだこれは半眼だと気づく。見ていないで見る。見ていて見ない。肉眼以外のもので見る内的世界。

 視覚的にみているロスコの絵が、自分の心の中の画面になり始める。一種の禅がなのか。いや違う、そうだこれは瞑想絵画と呼べばいい。ロスコの精神の絵画世界を、絵画哲学を表している。ロスコの世界観が見えてくるぞ。徐々に見えてくる仕組みが、ロスコの世界観に誘うのだ。

 ここの学芸員は凄いぞ。これはお礼を言わなければ。早まらないで良かった。瞑想室「ロスコ」だ。ここに来て絵の前でロスコの絵を見えない見えないと凝視することだ。だんだんロスコの静かだが、苦渋に満ちた世界が広がる。何だろうかこの悲しみの深さは。苦しいだろうな。いつの間にか、ロスコに引き込まれ、共感の気持ちが湧いてくる。

 この美術館は最低1柱(おおよそ1時間線香が消える間)は座らなければだめだ。目が慣れて見えるようになるにはそれくらいの時間がかかる。そのころには静かな心になって、ロスコに向かい合う。大半の人は絵が見えないのだからすぐに出てゆく。現代美術は分からんもんだ。絵を飾って電気を節約か。閉店セール中だから仕方がないか。ぐらいのものだ。

 次第に浮かび上がった絵は巧みで微妙な色調で出来ていることが分かる。深く暗いほぼ黒である。青や茶色。色であることをやめて明度だけに変わるような下地がある。その上に赤、や茶が複雑な色で置かれるのだが、その色が置かれた、下地のほぼ黒の上で、浮かび上がる。

 浮かび上がりながら、色であるはずの赤や茶が、モノトーンの明暗になり、色の意味を失う。色が消えるに従い、色が触覚に変わる。色が触り心地を、心に直接の肌触りになる。色という間接的な意味を失い、触覚という感性としてじかに伝わるものがある。

 黒の背景と思った空間は色を伴う矩形を見ているうちに、矩形が下地となって、黒い矩形が意識され、画面が行きつ戻りつし始める。揺らぐのだ。意識がどちらか寄りにいることがなく、行きつ戻りつ、揺らぐ、ゆすぶられる、動かされる。

 明るい部分は、目を閉じるとある種の黄色の残像になって、眼の底にボーっと不思議な姿を現す。目を見開いて居るのに、残像と背景と色のある矩形が、見ようとしても定まらない。なるほどこれをロスコが描こうとしたものかという合点がいく。

 しかし、合点は行ったのだがいったいこれをどう分かればいいのだろうか。この絵の声は不安だ。いたたまれない内部世界の深い闇だ。自分の解明できない心の中の闇を描こうとしている。その為に以前の絵に比べて、絵は荒くなり、雑な仕上げになる。たぶん仕上がりを重視しすぎて、絵が作り物になることを畏れたのだろう。

 絵はロスコという人間が描いた作品である、ということがわかるものでありたかったのだ。この仕上げの粗さは梅原や中川一政の粗さに通ずるところがある。こんな時点でやめたことのなかったロスコにとって、極めて危険な変容だったに違いない。ロスコはこれまでのロスコは工芸品のようにな仕上がりをしている。

 「照度の低さ」は、ロスコが<シーグラム壁画>を描くために借りたスタジオに由来します。スタジオの照明は、主に天井付近の小さな窓から入る外光のみ。ロスコは照明器具で天井を照らすことはあっても、画面に直接当てることはなかった。描いたアトリエに合わせて設計して展示した。

 とうえっぶに説明があった。しかし、描く場所がこれほど暗いわけがない。アトリエに差し込む天窓の光は天上の光が差し込むようだったはずだ。その光で描いて翌日来ると、雨の日で絵が暗闇の中で浮き上がって見えたのだろう。

 ここまで暗くすることは、確かに制作意図に従うことかもしれないが、果たして絵画としてはどうなのだろうか。問題点を隠すように暗いともいえる。私が美術館を設計するならば、天窓だけにする。私のアトリエはそうだ。この絵の以前のロスコの絵画は確かに繊細で工芸品的な仕上がり。

 どれほど明るい場所でも、そう見えるように描かれている。ある意味暗くないと意図があらわせなくなった可能性も高い。大きすぎる点。アクリル絵の具を使った点。油彩のような調子の美しさが失われ、即物的な表現に変わっていると思われる。素材としての美しさがかけている可能性が高い。そのことで現れてくるものがあるのだ。

 ロスコの絵画は視覚的なものを内的な世界として表すために、触覚を重視して、表現をしたと思われる。そのことに気付いたのは、八重山の織物を見て居てのことだ。織物は感触が需要になる。肌触りが良い。良いと感じさせる感触がなければならない。

 そのために苧麻や芭蕉の繊維はより細い糸が必要になったのだ。新垣幸子さんや平敏子さんの作品の色彩が糸が繊細に織られてゆく過程で、独特な深い肌触りの感触を作り出す。その感触に製作者の意識が現れる。世界観が表現される。織物は感触で世界観を表現するものだと思う。

 その時にロスコの絵画が浮かんだのだ。ロスコを見に行かなければと思い立ったのもそのことに由来する。視覚はものに触れたような味わいも含んでいる。その触れたような感触の中に、自分の内的な世界に通ずるものがあるのではないかというのが、ロスコの探求だったのではないか。

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