私の暮らし方。
人間は好きなことを見付けて、それを精一杯行うために生きるものだと親から教えられて、やってきた。何か無いものを作り出すということが好きだった。だから、金魚、パフィオ、鶏とともかく育てて、交配がしたくて仕方がなかった。その意味では農業への興味も子供のころから持ち続けていたと思う。
兄弟でいろいろの生きものを飼った。今思えば二人だからやれたのだろう。兄は岩手の赤牛に興味を持ちそちらの道に進んだ。二人でけんかをしながら、いろいろ飼った。兄はハトに興味を持ち、ハトを買いたい。私は日本鶏が飼いたい。話が付かないまま、鳩も飼い、鶏も飼った。何故世話をしないのかと良く揉めたが、結局一緒に飼った。
特に小屋づくりでは揉めた。小屋の作り方に考えの違いが出るからだ。こうすべきだというところが、あまりに違うもので最後は一人で作ることになった。どちらかが一人で作っていると、結局また一緒に作った。喧嘩ばかりしていたが、中の良い兄弟に違いない。
一人ではたぶんそこまで熱中できなかったと思う。二人でけんかしながらの飼育計画が面白くて、ついついやっていたことが、いつの間にかここまで来たという気がしている。子供のころと今までが幸い一つながりである。
一つ後悔していることがある。兄が役所を退職したときに、牧場を買って始めたいと相談された。何という事か、やめた方がいいと言ってしまった。その計画を聞いて、場所まで見に行ったりしたのだが、無理だと思ったのだ。
今思えば無理でも協力すべきだった。岩手に行って手伝うようでなければいけなかった。余計なことを言わなければよかったと今でも思う。なんであの時それなら一緒にやろうと言えなかったのか。情けない限りである。
兄も不安があったから相談してくれたのだろう。それなら励まして、手伝うべきだった。兄も赤牛の改良をやりたくて岩手に行った。それが好きだったに違いない。それに挑戦できれば、出来る出来ないはどうでもいいことだったはずだ。少なくとも父も母もそう考えただろう。私の常識的判断は最低のことだった。
好きなことをやり尽くす。その前提として好きなことを見つけるという事がある。好きなことがないという人は、これが好きなんだと思い込んで、やってみるほかない。妄想でもいい。そう思えばそうなるものだ。
私はそうだった。親がに好きなことを探すのが、若い人の目的だ。こう繰り返し言うから、絵が好きだという事にした。好きなことのない人間はダメだと思ったからだ。それなら絵を描くことが好きそうだっただけだ。それでそう思い込むことにした。
絵を描いていると面白かったのは確かだ。しかし、好きなのかどうかはまるで分らなかった。その意味では鶏を飼う方がはっきりと好きだった。何故、絵を描く方を好きだという事にしたのかはよくわからない。絵を描く人生の方が見栄えがよさそうに見えたのかもしれない。
多分、金魚を飼う人生が想像できなかった。鶏を描くという人生も想像できなかった。身近にそういう人がいなかったからだ。叔父が彫刻家でその頃、東京芸大に勤めていたので、なんとなく芸術家というものの実像が分かったのだろう。
父と伯父は凄い対抗心があったのだが、父は叔父に対して何かと面倒を見ていた。叔父の生活を支えるつもりだったと思う。叔父は弟の世話になることが出来るような人ではなかったから、複雑だっただろうが、背に腹は代えられないという事はあった。
父は商売人としての才覚があり、何とでも暮らすことができた。そのおかげで私もお金の苦労せず、今暮らしている。兄や兄の所の子供や、私のことの将来まで、好きなことをやり通せるように準備をしていた。自分の死んだ後の、子供の心配までしてくれたのだ。好きなことをして生きろという以上、それが出来るような状況を作り出す必要があると考えていた。
兄は赤牛の改良、私は絵を描く。父はそれぞれの好きな道に進んだことを良かったと、いい子供たちだと言って死んだ。私に絵描きの能力が不足していることを残念とは思わなかったようだ。絵描きとしてどれほどになるかという事にはそれほど関心がなかった。個展も一度も見には来なかった。そんなものは親が出張るものではないと言っていた。
父にしてみれば、その父も兄も芸術の道で生きたひとなので、私以上にそうした世界を知っていたと思う。親はかかわってはならないと思ったのだろう。親が喜んでくれるような結果を残せたかと言えば、そうではないのは残念だが、好きなことを貫いてゆくことだけはやってきた。
新しい何事かを作り出すことだ。本当の水彩画を作り出すことを目指したい。水彩画はまだ掘り起こされていないと考えている。これほど優れた素材にもかかわらず、油彩画や、日本画に比べると、水彩画はまだ現れたとは言えない。便利な素材なため、芸術の世界とは別の使われ方に止まったのだろう。
止まっている内に、絵画というものが社会から終わりを告げられた。社会の需要は装飾品としての絵画は存在しているが、芸術としての、つまり社会に影響を与え得る表現としての作
品の場所は無くなった。
品の場所は無くなった。
そして、新たな絵画の位置は制作するという事の方に変わっている。制作するという事の生き方の深さを掘り続けることに、芸術としての絵画を模索する。それを「私絵画の時代」と呼ぶことにした。制作の深さを問う世界だ。
作品は制作の深度をはかるものである。道元禅師の禅は人と較べるようなものではない。それぞれが禅に生ききることが出来るかどうかだろう。生きることは道元禅師の時代も、今も何も変わらない。座禅をして生きた道元禅師。
絵を描いて生きるという私絵画の世界。その為の自給自足の場が自給農業だと思う。道元禅師もご飯を食べた。極めて粗食である。栄養学的に言えば、生きていられないほどの粗食だ。それでも修行の道に生きることが出来たのは、精神が純化されていたからだろう。
自給自足の体験農場は、それぞれが好きなことで生きるための基本となる食糧の自給方法を学ぶ場である。祖父の黒川賢宗は自給自足をするのが禅坊主だと言っていた。そして、当たり前に生涯自給自足に生きた。田んぼを行い、桑畑を作り養蚕をして、山羊を飼い乳を搾り、炭焼きから、ミツバチの飼育、池での鯉の養殖までしていた。
祖父はそのことを当たり前として、その意味を口にすることはなかったが、昔の禅宗の坊主は自給自足するのが当たり前のことだったとはよく話した。好きなことをやり通すためには、食糧を自給する。この技術を確立した。昔は誰もが出来たことかもしれないが、今はその技術を伝えないとならない時代だと思う。
人間好きなことをして生きることはできる。どんな時代になるとしても、自給の技術さえ確立すれば、好きなことをやり通せる。自分なりに確立した技術をさらに磨いて伝えたいと思う。これは私の役割として、唯一意味あることかもしれない。