あらためて、自給のことを考えてみる。
名蔵の奥の田んぼである。12月の終わりに代掻きが行われた。今年は道普請がされていたから、代掻きが遅かったようだ。昨日も畦を治している方がいた。石垣の田んぼは冬水田んぼである。そばの田んぼの方から、理由を教えていただいた。
石垣の土は一度乾くと、日干しレンガのように堅くなる。だから、常に水を溜めておけば堅くならないと言うことだそうだ。鳥類保護のためと言うことでは無かったのだ。農家のための技術が水鳥たちのためにも成っていたのはすばらしいことだ。
代掻きされた田んぼの濁りは一週間は無くならない。それくらい細かな土壌で水持ちが実に良い。良すぎる。この濁りをうまく使い、コナギの発芽を抑えることが出来るのではないだろうか。8センチ以上の深水にして、一週間ごとに水を濁らせば草が生えないのではないだろうか。
この田んぼも一度水を入れただけで、後は天水だけである。それでいて、濁ったままで水が引くと言うことが無い。浸透性が悪いということにもなる。この浸透性の悪さが、石垣の稲作の収量向上を困難にしているのかもしれない。
山北の山の上で30代後半に自給の暮らしを始めた。自給に挑戦した。絵を描いて行く上でどのように暮らしをするかを考えたかった。シャベル一本の自給は意外に簡単に5年ほどでできた。そこから、みんなの自給と言うことを考えるようになり、あしがら農の会に繋がった。
社会をよくするために絵を描くと考えてきた。それはいまでも実現できないのだが、今も挑戦をつづけている。人間のために、自分という存在を追求したい。だから、ひとりの自給ができたときに、そこまでで終わるわけにはいかなかった。
自給は種一粒から始まる。窓辺でトマトを育ててみる。このことがすでに自給なのだと思う。考え方を分かっておりさえすれば、それだけでも充分なのだ。自分の存在は日々の食べ物から出来ている。この原点を見つめてみることが生きることの理由を考える上で役立つ。トマトの苗の生長を見ながら、考えてみる。
トマトの苗一つの中に、自然のすべてがある。人間もその自然の一つ。蒔かれた種は芽を出す。この不思議は命というものすべてに共通する。いくつもの段階を経て、トマトという実りを結ぶ。この世界観をどう受け止めるかだろう。トマトは美味しいしい食料であり、次の世代に繋がる種である。そしてトマトは枯れて終わる。
食糧を自給するとは、自分の命を育てると言うことなのだろう。人間は100年前までは、食糧自給の暮らしが当たり前のことだったのだ。今や食糧を作ると言うことは、社会から見えないことになってしまった。この原点が見えないで絵を描くことは出来ないと考えた。
ひとりの自給が達成できたときに、みんなの自給を考えたのは、自給を体験することは、誰にとってもかけがいのないものになると考えたからだ。大豆を作ると言うことはどこまでも総合的なものだ。ひとりでやるよりみんなでやることが、本来の社会というものの理にかなっている。
ひとりの自給の3分の1の労力で、みんなの自給は可能だ。ひとりの自給を日々3時間の労働で達成できる能力の人が10人集まり自給をすれば、1時間の労働時間で味噌は出来ることになる。みんなの自給にはひとりでは自給が無理な人もいる。子供も居れば老人もいる。
農作業には子供の仕事もあれば、老人の仕事もある。多様な人が社会にはいる。ひとりの自給が出来る能力の人は3時間働くだろう。老人も、子供も働く。3時間も働けないかもしれない。しかし、10人の自給はみんなが提供した労働で、総合的に達成できる。ひとりの自給ができる人も、3時間以上働くわけでは無い。
能力の高い人を中心にして、その回りを様々な人が支えるような形ができれば、合理的な自給が可能になる。これは人間が共同体を作った原型だと思う。能力主義や経済優先の社会になり、価値観まで自分を優先し競争に勝たなければ生きて行けないと、考え方が変化したのだろう。
みんなの自給は楽しいからやる自給である。自給のための労働はつらいだけではなく、楽しい労働であると考える。それは自分のためだけの労働では無く、みんなのためにも成る労働だから、よりいっそう楽しくなる。人間には人のためならば頑張れるという人もいる。経済合理主義で考える者であれば、きっと馬鹿馬鹿しいと切り捨てる考え方なのだろう。
自給を志したときに化石燃料は使わないことにした。どこまでやれるものか、自分を試してみたかったからである。機械力が無いとしても、自給ができると言うことを確認したかった。今でも農の会のは機械力に頼らない農作業である。
しかも、自給農業は無農薬、無化学肥料、天日干し、そして収量においても周辺農家以上収穫量の達成が可能なのだ。遊びの農業では無い。自給農業は自分の命を支える農業である。不都合なら止めれば良いというような気楽な農業では無い。
農の会の味噌造りも、最初は北海道の有機の大豆を購入して味噌造りをした。地域にも大豆はあったのだが、有機の大豆では無かった。果たして、遠くから有機大豆を買うことと、地場の慣行農法の大豆を購入することを選ぶとすれば、どちらが正しい選択なのか。当然地域のものである。
有機野菜の方が身体に良いという考えよりも、地場の有機農業を育てることが大事だ。紆余曲折を経て、農の会で味噌造りをするのであれば、北海道から購入するより、自分たちで作る方が良いとと言うことになった。お米もあるのだから、麹も自分たちで作る方が良いと言うことになる。
こうして大豆の会が始まったわけだが、その始まりは苗一つの自給である。大豆も蒔けば、芽を出したくさんの実を付ける。それをいただき味噌を仕込む。この循環を感じることが自給なのだろう。購入する大豆とは意味が違う。この循環は途切れることは出来ない。命をつないで行き、それをいただくと言うことである。
コロナウイルスが蔓延し、人が集まることさえ困難になっている。自給の暮らしを忘れてしまった人間が導き出した、新しい感染症の出現である。コロナの次もあるに違いない。人間は生き方を変えなければならない。
社会の中で生きる人間が、孤立を強いられている。人間は暮らし方を見直さなければならないはずだ。経済合理性に従って居る間に、最も大切な人間の暮らしの自給という原点を見失ったのだろう。
こうしたときこそ、苗一つの自給の原点を思い出すべきだろう。種は芽を出す。芽は育ち実を付ける。その実がひとの命を支えてくれている。コロナは必ず終わる。感染症はどれだけ猛威を振るおうとも、終息が来る。それは今地球上に存在するすべての生き物の姿である。