学術会議問題のすり替え
学術会議任命問題に関する議論がひどい事になっている。連続して書くのもどうかと思うが、議論の方向のすり替え方を見ると、仕組んだことだと思える。政府や政治家は学問を怖れているのだ。科学を怖れているのだ。科学の客観性を避けたいのだ。
自民党下村政調会長の発言ではこの6年間答申がないというのだ。それは政府が諮問しないから答申がなかったのだろう。なんという知能レベルの人間なのなのだろう。こんな程度の人が政調会長では学術会議などにいらないと思い込んでいるに違いない。答申を聞きたくなかったから、諮問しなかったのはお前自身だろう。本当に嫌になる。
学術会議の10億円の予算を問題にしているのが河野太郎。そんなことを任命問題のさなかに持ち出すことがゆがんでいる。それならお前たちの使っている政党助成金を行政改革してもらいたい。まずは隗より始めよ。そっちも総合的俯瞰的に判断したらどうだろう。あの裁判になっているご夫婦議員は選挙の時にすごいお金を安倍氏からもらって、賄賂に使ったのだ。
推薦を拒否したとしても法律上何の問題もないという、当たり前のことで言い逃れようとする連中もいる。法律論など持ちだす以前の話だ。学問を尊重するのは法律上の問題ではない。政治が良い社会を作るためには学問を必要としているという事だ。学問が政治判断の科学性を担保するという事だ。
良い社会を作るためには学問ほど尊いものはない。憲法学というものがある。憲法を様々な角度から研究しているのだ。これは政治家とは別の角度から、憲法に関する研究をしている。憲法が国民の暮らしにとって、どうあるべきかを科学的に研究している。
憲法を改正したいというのであれば、学術会議に諮問するのも一つのやり方である。政府は当然避けている。憲法は行政に対して行いの基準を示したもんだ。憲法を自分の都合の良いように拡大解釈をしてはだめとしている。政府の解釈が学術会議によっておかしいと答申されることが嫌なのだ。
政府は科学的には無理な憲法の拡大解釈を続けているという自覚があるのだろう。国民にしてみれば、国会が憲法を大いに科学的に議論してもらいたい。憲法を中学生が素直に読むような姿勢で、憲法の解釈をしてもらいたい。憲法を逸脱するような間違った法律が作られてはいないか、科学的な判断が必要である。
その上で、必要な法律が憲法違反になるのだとすれば、憲法を改正することが必要になる。ところが、憲法違反である安保法制を無理やり作り、憲法学者の中では憲法違反であるという考えが多数を占めている。この異様な事態が今回の学術会議批判の根底にある。
これは憲法裁判所を作るという事に対して、議論すらしようとしない自民党の態度に現れている。憲法を議論する前提には、憲法を尊重する精神がなければ始まらないのだ。憲法などなければいいというのが、自民党の本音なのだ。よしんば憲法があるとすれば、明治帝国憲法が望ましい憲法なのだ。国民の人権など大切にしたくないのだ。
所が憲法は変えることができない。国民は権利を自覚している。いまさら明治憲法には戻りたくない。そこで拡大解釈で憲法無視を始めたのだ。こうした本音が露骨になった結果。学術会議が目障りになってきた。科学的な判断はいらないのだ。
今回の報道でNHKは極めてひどい状態である。ニュースを見ているとまるで問題を避けているように思える。フジテレビの論説委員は何の根拠もない、報酬に関するデマ報道までしている。報道を操作するにはこうした人事の懲罰の見せしめが効果を上げ始めたのではないか。
学術会議の任命問題は見せしめなのだ。安保法制に反対する人は排除しますよ、とみんなに忖度させようという事だ。ここまでやるよという事なのだ。NHKも予算が欲しいなら、どういう報道をすべきかわかっているね。という事なのだ。
御用学者だけの一辺倒の学問の世界になれば、つまらない単調な社会になる。学問の出発は疑問である。問題意識である。何かおかしいぞ。何か変だぞ。これは何なのだろう。こうした観点がなければ学問は生まれない。政府のやることの後付けだけをするならば、疑問を持つこと自体が、良くない見方になる。
学問はどこまでも自由で、価値があろうがなかろうが、そうしたことにすら自由にある方が良い。目先の利益にとらわれてしまうと、大切な次の時代の科学的発見を遮るかもしれない。今までの価値観を超えなければ次のものは見えてこない。
学問はそれこそ、俯瞰的、総合的なものなのだ。政府に都合の良いことだけでないからこそ、その科学性が重要になる。例えば、トランプ大統領のコロナに対する行動は感染症医学に反している。5日で退院して仕事を始めるなど、論外である。
たぶん、不都合な医師は排除されるのだろう。こうした大統領の行動に対して、アメリカの感染症学会は意見を述べないのだろうか。大統領の行動はアメリカ国民の行動に影響するだろう。トランプさんは私より年上だ。老人は迷惑をかけてはいけないだろう。感染したら当分自粛だ。
学問は科学的判断を参考意見として申し述べるべきではないのだろうか。日本で言われている、感染者の行動制限からすれば、あり得ない話だ。これを見ているとアメリカは本当にひどい国になってしまったように見えるのだが。
日本のやり方は実にいやらしい。人間の人事という弱みに付け込み、忖度を要求する。しかし、日本の学者は優れている。今回の弾圧を跳ね返すと思っている。日本が日本であり、ここまでこれたのは学問の力だと思う。
学者になりたかったがそれだけの頭がなかった者として、学者に対する尊敬の気持ちだけは持っているつもりだ。学問は何よりも尊い。学問の科学性ほど大切なものはないと思う。養鶏のことでも、イネ作りのことでも、科学的でありたいと考えてきた。
学問はまるで違う生き方をするとしても、学問の在り方から学ぶものは大きい。私の父は生涯柳田国男氏の弟子という精神で生きた。学問は続けることが出来なかったけれど、その考え方、生き方は、柳田先生に学んだといつも口にしていた。
その尊敬の気持ちはひしひしと伝わってきた。父が筋を通した生涯を生きたのは柳田先生との出会いがあったからだと思う。父は学問に生きることが出来なかったことを、残念そうにしていた。その思いが学問というものの大切を教えてくれた。
学者をないがしろにする、政治を許すことができない。父の思いを知っていたにもかかわらず、学者にはなれなかったものである。そんな人間であるから越し、学者の方々に対する尊敬の念だけは忘れたことはない。日本人がノーベル賞を受賞するほどうれしいことはない。
それがスカ政権によって足蹴にされたように見えて耐えがたいものがある。撤回してもらいたい。