絵は教えられるものではない。

   


与那国島 東崎 あがりざき

  長年絵を描いてきて、絵の教室をやってほしいといわれたこともある。しかし、それだけはやらないことに決めてきた。収入を得るためであれば、できるだけ絵と遠いいことの方がいいと考えてきた。収入を得ると言うことは、そのことによって立つと言うことになる。全力でやらなければいけないことだと思う。影響を受けないわけがない。

 子供の頃から生活力には何故か自信がある。若い頃には、焼き芋屋のリヤカーを引いて歩いた事もある。路上での洋服のたたき売りのようなこともやった。これはある企業から安く、ジャンバーを仕入れて売りさばく仕事だった。寅さんのように見様見真似で啖呵売である。どれもかなり繁盛させた。こうした経験は農産物を販売するときにすこし役に立った。卵を売るのも難しいことではあったが何とか道を切り開いた。

 世田谷学園で美術の講師をしていた。これは絵を教えると言うより、美術の発想を伝えるものだと考えていた。生徒を絵を上手にさせる必要はない。美術という魅力的なものがあると言うことを伝えたかった。それには私自身が面白がって一緒にやる必要があると考えていた。そのことを伝えたかったのだが、うまくいったかどうかは分からない。精一杯だったが、いい加減な奴に見えていたかもしれない。

 一緒に大理石モザイクや、組木パズルなどやっていた。思い出せば、落款作り、額作り、書票作り、自分のマーク、レコードジャケットを作る。すべて自分がやりたいと思うことをやらせて貰った。いわゆる絵を描くことはやらなかった。生徒よりも私が楽しかった。自由にやらせてもらえたことを世田谷学園に感謝している。

 絵を教えることで教える人の絵になるのがいやだったのだ。絵で一番ダメなことは、絵の問題点を見つけて修正することである。ここが悪い、あそこが悪いと、指摘の上手な人がいる。こんな絵の考え方は絵を描く害に過ぎない。批評というと欠点の発見だと思っている人がいるのだ。

 批評というのは、まだ作者自身も気づいていない、その人の絵の方向を見つけることだ。その人にとってその絵が何であるか。それ故に時代の中でどういう意味があるのか。そういうことを見つけるのが絵の評論だ。絵は人まねでなく、違うところが貴重なのだ。絵を標準に合わせて修正するのは間違いである。絵を上手に見せる方法などどうでもいいことだ。

 しかし、一般にはこのどうでもいいことを一番望むのが、生徒という存在である。先生に問題点を指摘して貰い、絵を進めようと考える。問題点などどれだけ修正したところで、その人の絵に至ることはない。世間一般のいわゆる上手な絵になるだけだ。他に指導は方法がない。そんなことはそもそも意味がない。

 人間は先生になりたがりもいる。いぜん、50カ所悪いところを発見できると、豪語した児童画の指導者をテレビで見て驚いた。これは最悪である。せめて、50カ所良いところを見つけられると言って欲しかった。きっとこの先生なら、マチスの悪いところを50カ所見つけられるだろう。何の意味もない。

 時代を切り開く美術というものは、かつてないものである。受け入れがたいところがあるものだ。欠点だらけに決まっている。欠点のないようなものに、未来があるわけがない。守りの姿勢では、美術は不可能なものだ。それは職人であり、工芸美術である。別段それを悪く言うのではなく、芸術は違うと言うことだ。

  先生は生徒の絵の良くないところを、いくつでも見つけて教えてあげることになる。そうすると、欠点のない評価されやすい絵になる。コンクールで評価されるような絵になるのだろう。なんとくだらないことか。世間的な良さなど絵には無意味である。世間はそれを良い指導とするのだろうが。全く馬鹿馬鹿しい話である。

 絵を描くというのは、新しい世界を作ると言うことだ。かつてないものに挑むと言うことだ。それは欠点だらけで、過去の価値観などでは測れないものであろう。常識的な絵の判断から、問題点の指摘などしていては、芽を摘むだけである。

 そう考えてきたので、絵を指導すると言うことだけはしたくなかった。おかげさまで絵を教えることをしないですんだ。これは本当に良かった。絵の技術指導書のようなものを書く人もいるが、こういう人も絵描きではない。絵の技術の先生は芸術家とは一番遠い人である。本を書くのなら、自分の芸術思想を語るべきだ。

 欠点を見つける目で絵を見ることがよくない。絵を客観的判断してはならない。芸術は爆発なのだ。人間が爆発している場なのだ。他人の判断など縁のない世界だ。無難な工芸品を作ろうというわけではない。工芸と芸術とは似て非なるものなのだ。

 マチスが絵を教えなかったそうだ。その理由は教わりに来た人が絵描きにはなれないということがすぐにわかったからだ。教えたところで絵描きになれるとは到底思えなかった。無駄だから止めなさいとは言えないので教えることは止めたと、マチスの日記に書いてあった。

 指導することで成長できると言うこともある。それは道である。絵画道というものがあるとすれば人間のあり方を示すことはあるかもしれない。例えば「絵は指導してはいけない。」と言うようなことを指導することは出来る。果たして芸術が芸道になるかどうかは微妙である。たぶん芸術には道はない。

 芸術は道にもならないほど手強いのだ。その人が奇妙きてれつに見つけ出す以外にない。芸術は宗教を極めるようなことなのだ、と思う。宗教を極めることが難しいように、芸術には終わりはないのだろう。やり続けて死ぬと言うことを受け入れると言うことだろう。

 

 

 - 水彩画