石垣島にもコロナ緊急事態、何が幸せかを考える。
石垣島でも新型コロナウイルスの感染者が2人出てしまった。まだ状況は分からないが、症状が軽いことを願っている。残念な辛い状況ではあるが、前向きに考えたいと思う。八重山でもいつか感染者が出ることは避けられないことなのだ。
感染者を責めるような空気はあってはならない。日本全体の昨日のコロナの死亡者は6人である。感染者は増えているとは思うが、まだ、なんとかなる状況である。犯人捜しよりも、自分がどうすれば良いかである。
外出の自粛がかなり徹底されてきた。感染がそろそろ鈍化してくることが期待される。後は通勤の問題だろう。少しでも感染のピークを先に延ばす。3密の禁止もあるが、個々人としては、今まで以上に免疫力を高める努力をする。私の場合この点元々そういう暮らしだから、大きな変わりはないがさらに努力するつもりだ。
このまま何とか2週間感染者が出なければ、イヤ1週間ぐらい出なければいいがそれまでは特に注意したい。むしろ散歩はしようと思う。気持ちを明るく保つことが大切だ。絵を描きに行った先で大いに散歩をすることにする。野外で人とすれ違うぐらいで感染することはないから、町中で散歩するのはかまわないのだが、観光客に私が見えて島の人に不安を与えるところがイヤだ。
観光客は確かに大分減少したが、来ては居ないわけでもない。避難してきたと思われる人もいる。帰郷した人も居るはずである。ともかく感染が広がらないようにみんなで心を合わせて努力するほかない。恐れすぎず、注意深く。明るい気持ちでいなければ、コロナに負ける。
世界中が新型コロナウイルスで緊急事態である。世界に不安が広がっている。こうした時にどう対応するかで自分の人生は変わってゆく。たぶん世界は少し変わるだろう。原発事故の時に世界はこれで変わるに違いないと思った。そういえば原発事故後石垣島に俵万智さんは越したのだった。
原発事故で世界の本質は変わったのだが、まだその変化は時代の表面には浮かび上がっては居ないだけだと思っている。しかし、確実に深いところで何かがおかしいという感触は広がった。このまま競争主義、能力主義の文明が進んでゆくことはできないということだと思う。
これからの時代にはこうした膿のような物が噴出する事件が、何度も繰り返して浮上してくる。例えばマイクロプラステックが、具体的に手におえない形で人間に害を及ぼし始める時がいつか来ることをみんな知っている。オゾン層の破壊のような環境が崩れて行くことも免疫を低下させている。新型コロナ感染もそうしたことの一つなのだと思う。
気候変動は着実に深刻化はしているのだ。ところがトランプ大統領などは、大したことはない。これは地球のサイクルであって、氷河期も来ることはあるぐらいに、安易に考えている。安易な安全神話を信じたいというのが人間の習性のようなものだ。しかし、着実に地球は崩壊へと転がり始めている。
こうした危機がウイルス感染の蔓延で表面化した今こそ、人間の幸せな暮らしがどんなものか考え直すときではないだろうか。人間もゆでガエルである。原発事故で目が覚めた人もいた。生き方を変えることができた人もいた。あのときは絵を描くことができくなった。今回のコロナはどうだろうか。残り時間を教えてもらったと言う実感がある。死の実感が強まった。絵はそれなりに描けている。
人間は必ず死ぬものであると言う、当たり前のことを思い出させてくれた。当たり前すぎてついつい忘れている。明日死ぬとしたら今日一日をどう生きるか。朝起きたということは生きていたということだ。明日死ぬかもしれないということを感じることができれば、何が幸せであるのかというような青臭いようなことに、直面することができる。
日々、絵を描くと言うことをより深く、いや深くと言うより深刻に考えるようになっている。今回の感染症は男性の老人で、基礎疾患がある人が重症化して死亡する事例が多いとされている。そうした人が感染した場合、10%ぐらいの致死率があるのかもしれない。こうなると感染はしたくないのは人情である。
ひとごとではなく、自分のことである。それを受け入れようと思う。70歳であり、肺結核を経験している。その後も肺や気管支が弱く、たばこのある場所に居るだけで寝込んでしまう経験が何回もある。死は忘れているだけで、そう遠くないことである。死を思い出したこの機会を生かしたいと思う。
死を身近に感じて残された時間どう生きるのかを考えている。どのようにあるべきかとなると、やはり絵を描く以外にない。しかも、結論を出すような絵を描かなければならない。結論を出すという意味が変わってきたようだ。絵は最近そこそこ描けていると思っている。何故なのだろうか。絵が自分に近づいてきた感じがするのか。
自分の絵が大したものではないということは、さすがにわかっている。ダメなことがわかるから、まだ完成していないのであって、もし完成することがあれば、大した絵になるのだと言い訳をしてきたようなものだ。その時その時に結論を出すというのも、一つのあり方ではある。このままでは死ぬまで結論を出さなかった人になる。
完成すると言うつもりで描くと言うことは、可能性という大切なものを切り捨てることにもなる。人間は可能性があるから面白い。結論をその場その場で出してゆくというだけではないと思う。わからないことをわからないままにしておくということも、意味がある。死ぬときまで分からないというのもまあいいのではないか。
当面の結論は出すという絵の描き方をすると、そこで切り捨てられるものが山ほどある。しかも、わからないにもかかわらず結論を出してしまうということは、人が出した回答を参考にするということになる。人が出した答えを自分の答えと勘違いしてしまう。やはり近く死ぬとしても、分からないままで未完成であるしかない。
そう考えてきた。わからないままでいいと考えてきた。しかし、死ということを前にしても、分からないままでいい。何がわからないのかを。何が見えていないのかを考えたい。自分のあいまいなところを含めて、現時点で断ち切られる絵を描くのだろうか。
こんな風に考えるようになっている。考えるというか、絵がそういう風になってきているようだ。コロナのおかげである。いいことなのか、悪いことなのかはわからないが死というものを身近に感じて、どこか変わったかもしれない。竹刀の剣道では宮本武蔵にはなれない。
10年かけて結論を出すつもりで居た。65歳から70歳まではそれまで絵を忘れることに費やした。やっと忘れたところだ。ここから、人まねではない自分自身だけの絵を描きたい。それを10年間やれば何とか自分の絵に至れるのではないかと考えていた。
それもあり絵に専念できる石垣島に引っ越した。石垣で絵を描き始めて、絵に集中できている。これだけは今断ち切られたとしても悪くない。幸せだと思う。絵を好きなだけ描けると言うことが、私の幸せと言うことのようだ。