おばさんの家族が石垣島に来てくれた。

   



竹富小中学校入口

 おばさんの家族が石垣島に来てくれた。竹富島に行ったのは案内と言うことで一緒に出かけた。そういうことでもないと、わざわざ竹富島に行くと言うこともなかっただろう。

 いとこも2人一緒で3人できてくれた。亡くなったおじさんは父の弟だ。おじさんはもう随分前に亡くなられた。宇都宮に行く前の叔父とは一緒に暮らしていた。叔父は稲作の研究者であった。

 私たち兄弟二人をまたとなくかわいがってくれた。ありがたい貴重な思い出である。おじさんに大切にして貰ったことを思うと、できる限りの事をおばさん家族にしてあげたかった。おばさんはもう88歳なのだが、なんとか石垣島まで来てくれた。そして無事東京に戻った。

 イネ作りに興味を持つようになったひとつの要因はおじさんである。おじさんはイネの研究者だった。宇都宮大学に勤めていたのだが、東京に学会で良く出てきた。そのときは必ず家に宿泊して、いろいろ研究していることを話してくれた。

 物事に対して深い興味を持つと言うことを教えられた。学者というものが好きになった一番の原因である。中学生、高校生の私に本気でその時々の研究内容を話してくれた。どうやって実証実験をしているかを熱中して夜中まで図やデーターに基づいて話してくれた。子供向きと言うことではなかった。

 こんなに楽しい時間はなかった。学問をするというのはこれほど人を熱中させるものかと思う。おじさんは説明が上手で、図解入りで何でも説明してくれる。ターボエンジンというものがどういうものかとか、熱交換器付きの換気扇の仕組みも教えてくれた。

 科学において論理的にものを考える重要性をいつも見せてくれた。何か間違ったことを言うと、わずかなことでも即座に違うと否定する。何故間違っているのかを実にわかりやすく説明してくれる。学問の論理性と言うことを教えられた。

 70年の学生運動のさなかに、金沢で今起きていることを話したこともある。宇都宮大学でも紛争が起きていて、おじさんは教員側として、学生と交渉に当たっていたのだ。ところが若い頃の叔父は東大農学部大学院の全学連の代表だった。あの頃のことを考えて欲しいと話したら、あのとき大学で起きていた紛争は、今とは本質が違うと図解入りで延々と説明をしてくれた。

 生意気な大学生だった私は、何とか論理的におじさんに70年代の問題を説明した。少しは理解してくれて、学生の話を良く聞いてくれると言っていた。論理には従う、そういうすばらしいおじさんだった。後に宇都宮大学の農学部で、叔父から教わったという人と絵描き仲間として知り合った。叔父を尊敬してくれていて、嬉しかった。

 今はおじさんの家族は3人で東京で暮らしている。今回石垣島に来てくれた。3泊4日である。楽しんで貰おうと計画を立てた。竹富島にはゆく。グラスボートには乗る。石垣島のすばらしい場所を案内する。美味しいものを食べて貰う。八重山民謡を聴いて貰う。陶芸体験。民具作り体験。どれもほとんど歩かないでやれることを考えた。

 疲れなかっただろうか。楽しんでくれただろうか。島の案内は他の人よりも詳しいと思う。毎日絵を描く場所を探して歩いているから、普通の観光客の人が行かないような美しい場所も知っているつもりだ。このすばらしい景色を充分に楽しんでもらえた。

 おばさんは88歳で歩くことが難しいので、歩かないでも楽しめるコースにした。竹富島は歩けない人でもそれなりに楽しむことが出来るようだった。おばさんたちが休んでいる間。一人で島中を歩いて回っていたのだが。

 ホテルは朝食だけにして、あちこち私の好きなお店で食事をして歩いた。これもとても喜んでくれたようだ。おばさんは何でも私以上に食べてくれた。私も付き合って夕食を食べたので、体重がけっこう増えた。増えた体重分だけ楽しかったから良かった。

 陶芸体験も楽しくやれて、良かったといっていた。しかし、作品が一年待ちと言うことで驚いていた。その点やちむん館の民芸体験はそのままお土産に出来て、嬉しそうだった。

 お土産はユーグレナモールとゆらてーく市場に出かけたのだが、めずらしい果物を買って送った。パッションフルーツがあったので買った。パイナップルも。パパイアも。あちこち帰って配らなければならないところがあるようだ。

 今度は3月に水彩人の仲間が来る。今から絵を描く場所など考えている。確かに竹富島に行きたい人はいるだろう。蛍も是非見て貰いたい。雨が降っても絵が描けるところを探さなければ。雨の日こそ見えるものもあるのだから。
 朋遠方より来たる。まさにはるばる来てくれることになる。こういうことも石垣島暮らしの楽しさかもしれない。

 

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