日本の「読解力」15位に後退

   


バルボフィラム

 原因は詰め込み教育である。小学校の英語など止めて、読書をしなければだめだ。自慢するのではないが、兄と私は国語だけはまともだった。二人とも競争して本を読んだ。国語のみ全国模擬試験でもベストテン以内だった。他の科目は全くダメだった。

 勉強はしない方だったが、本を読むことは好きだった。毎日1冊は読んでいた。図書館から借りてきた本を乱読していた。それだけであるが、その結果読解力はあったのだと思う。どうやって読解力を調べるかの事例が出ていた。

 イースター島で木が無くなった原因を自分なりに考えて、論理的に回答する問題だ。モアイ像を運んだためとか、気候変動とか、信仰の問題。食糧危機。人口増加。住宅問題。一度無くなると再生できない気候条件。熱帯土壌の問題もあるかもしれない。樹木の害虫や病気の蔓延とか、いろいろ想像できる。結局は人間の暮らし方の問題になる。複合的な原因があるのだろう。

 考えて総合する、そして論理的に書く。こういう問題で日本の高校生はあまり成績が良くなかったという事である。成績の良かったのは中国の高校生だったそうだ。2番がシンガポール。3番がマカオ。中国人には優秀な人が確かにいる。国づくりは教育からである。中国人が本気で人材育成をしていることがわかる。

 日本ではくだらない英語教育推進である。まさに明治政府の脱亜入欧をまねたようなものだ。外国語を学ぶ以前に日本語を学ぶ必要がある。日本語で考える能力が高まれば、外国語は何とかなる。英語をしゃべることはできないが、読む力はあった。

 しゃべる能力を高めるという事では、思考能力が高まるという事にはならない。話す内容が問題なのだ。自分の原点である育った日本についての知識がなければ、自分を語ることはできない。

 フランスにいる頃一番聞かれるのが日本美術についてであった。日本美術に関しての知識がなければ、絵を語ることはできない。フランス語は危うかったが、東洋美術に関する見方は持っていた。フランス語が出来るだけでは、自分の考えを表現しようがない。

 「インターナショナルであることは、極めてナショナルなことなのだ。」当時パリで棟方志功展があり、新聞にこう書かれていたことを思い出す。精神の印象派だと自画自賛したのは、木村忠太である。自分の思想がなければ何も始まらない。

 自分の人間を深めることが教育の目標である。知識の詰込みなど大したことはない。人間を深めるためには観察力を深めることでもある。小田原でも良い雲は浮かんでいる。何故か、石垣島の雲のようには美しくは感じられない。この理由を感性としてがわからなければ、絵は描けない。

 読書をすること自然と接することで人間は深まる。人間教育はこの二つに尽きるのではないだろうか。学校教育では知識教育も必要ではある。科学的に思考する能力、数学的に考える力。こうしたものを高める必要もあるのだろう。

 私にはそうした力がないという自覚がある。もう少し勉強して、発酵のことを研究したかった。少し自学しようとしたが、壁が高かった。大学の発酵の授業を聴講しようと調べたこともあったが、能力不足の不安と、時間の余裕がなかったので実行できなかった。

 やはり若い時に勉強をもう少しして置けばと思った。その勉強は間違っても知識教育ではない。知識など必要な時に調べればいい。どんな知識が必要なのかを考える力がなければ、読解力は高まらない。イースター島の気候は調べればわかる。

 学校教育では読書教育。昔で言えばつづり方教育を取り入れるべきだ。見て書く訓練である。見る能力を高めなければ、そこに起きている事象をよくよく見ることができない。見る能力というものは奥の深いものだ。子供のころ小さなランチュウの頭の煙を見ろと言われて、何も見えなかったことを思い出す。

 小さなランチュウを見て、頭のケムリで瘤の出方がわかるというのだ。これが見えるようにならなければ選別は出来ないと教えてくれた。それはすべてのことに繋がっている。見えないことは絵に描くことはできない。見えていることが表面的なことだけであれば、写真でいいわけだ。

 熊谷守一はアリがどうやって歩いているかを見ていたそうだ。漠然と歩いているという事は誰にでも見える。しかし、どいう力学でどういう足の出し方をするのか。昆虫の合理性まで見ぬかなければ、熊谷守一の絵はない。

 自然をとことん見る。私は鶏と田んぼでそのことを学んだ。鶏のとさかの色で、鶏の産卵の状態が見えた。田んぼの葉の色で根の状態を想像した。自然の多様さから、見る能力を高める訓練をする。

 学校教育で言えば、飼育係であり、学校田である。学校ではただ鶏を飼うのではない。鶏は自然というものへの窓口なのだ。鶏の様子がわかる子供になれば、自然というものが徐々に見えてくる。学校田も同じである。

 学校田で田んぼのお米が出来るまでの知識を知るのではもったいない。田んぼで起こる自然の驚異を感じなければならない。播かれた一粒のお米が、芽を出し、成長して実る。その実りを頂く人間。イネという植物の姿を通して、自然と人間のかかわりを知る。

 人間が自然の中で、調和して生きてゆくのはどういうことなのか。こうしたことを教えるのが、教育だと思う。

 日本の教育が知識偏重になっている。暗記力の競争のようなものになっている。

 

 

 - 身辺雑記