2019、21回「水彩人展」で考えたこと

   



 
 今日水彩人展が終わる。今回大きなものを獲得できたような気がしている。私にとっては再出発の一回目の水彩人展である。これから積み上げて行こうと強い気持ちが、決意出来た展覧会である。これからの方角が少し見えてきた。

 これから先はまだ霧の中であるが、それでもいくらか展望できるようになった。やれるかどうかは危ういものだが、ともかくこの柵のことが見つかった。進む方角が見えたのは水彩人展の仲間や、一枚の絵の小川さんと話をしたことによるのだと思う。

 自分がまだ何にも至っていないという事が自覚できた。自分だけでなく、水彩画というものがまだその材料を生かし切っていないという事を痛感した。これほど日本人向きの素材でありながら、いまだ水彩画と言える水彩画がないという事に気づいた。

 アメリカ式ウオーターカラーというものはある。イギリスの水彩画というものもある。クレーの水彩画もある。それぞれに一つの手法であるが、水彩材料の持つ本質まで行き着いていないと思う。

 その理由はある。水彩画の持つ精神世界の問題である。水彩材料は材料の中でも際立って美しい。その美しさにとどまりやすい傾向がある。美しさに立ち寄りしたまま、その先に進もうとしなかったのではないか。

 東洋には水墨画の伝統がある。この世界は絵画による哲学の世界ともいえる。作者の哲学的境地のようなものを表現する手段としての絵画である。さらに言えば、禅画のように修行の一環としての絵画というものさえある。

 水彩画は西洋絵画的構築性と東洋哲学が融合した世界に到達できるはずだ。中川一政がもし描いたとしたらそうであろうという、水彩画である。水彩人で言えば、栗原さんの絵が一番近いのだともう。

 ここからである。70にもなっているのだが、ここからである。やっと自分の絵の方角が自覚できた。それはこの5年間今までこびりついた、絵画でこびりついた癖を捨て去ることが出来たからだと思う。

 自分の絵が水彩画で出来ていないことが分かった。だから、ここからやり直せるような気がしている。水彩画がどんなもので、何がいまだできていないののか。少し見えてきた気がしている。

 水彩画は油絵ではない。日本画でもない。水墨画でもない。まして写真でもない。水彩画は水彩画であるのだが、まだ水彩画という材料を十分に生かしたその本質に至っていない。今までなんとなくそいう思っていたのだが、かなり具体的にその意味は分かってきた。そして私の絵もいまだ水彩画ではないと分かった。

 水彩画の材料の特徴は、透明性のある色彩。重層してゆく複雑な色彩。沁み込んでゆくような着色の様子。書や水墨画のような、線描の妙。東洋の精神的絵画にも直結している。しかも、油彩画の様な構築性のある明確な構成的表現も可能。これらを総合的に生かした水彩画には至っていない。

 どこかにあるのかもしれないが、まだ見たことがない。今年の水彩人展にもない。日本水彩画会でも、水彩連盟展でも見たことがない。この当たり前のことに何故誰も挑まないのかと思うが、ここ50年で形成された、公募展絵画と商品絵画が、目を曇らせているのではなかろうか。

 それをやってみたいと思う。何のことやらわかりにくい話である。見てもらえればわかりやすいのだが、まだやっていないので、分かりにくいのはしょうがない。

 たとえ話で言えば、ベラスケスが描く、水彩画の日本の風景である。ベラスケスは前にも書いたが、本当のリアリズム絵画である。単なる白い点や線をレースに見せてしまう。何故レースに見えるかと言えば、それが的確なバルールに置かれた線だからだ。それが本物のリアリズムだ。

 絵のわからん陳の場合、その線で置くべき白のレースを、こまごまと面相筆で克明に描き、馬脚を現す。人間が見ているリアルというものは、顕微鏡の目のようなものではないのだ。それは病気の目である。機械的な正確さを、人間の目の見る正確だと考えてしまう幼稚である。

 私のような未熟なものの絵でも、風景の中に的確に置いた黒い点が黒牛になるようなことを経験している。同じ黒い点が、的確なところに的確に置けば、立木になる。

 本当のリアリズムというものは、的確な筆触で、必要不可欠な色で、あるべきところにあるべきものを置けば、それは画面に食いつき、そのものの意味を持つことになる。風景全体の中での意味である。

 リアルというのは現実という事だ。ものがあるという現実がリアルだ。リアルな世界というものは、何も説明などない。ただあるだけである。ただあるものを人間的な理解で説明などしても何の意味もない。

 油絵ではベラスケスが存在するが、水彩画ではこうした絵画的成り立ちの絵が少ない。

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