情緒的な水彩画という意味

   

 芸術作品と情緒性は関連したものであるのか。あるいは情緒的であることが、芸術から離れることになるのか。情緒的なるもの自体の規定が難しいが。例えば竹下夢二とか、岩崎ちひろ、別の意味で、松本俊介や長谷川利光の作品を普通は情緒的側面があると言うのだろう。モンドリアンの絵は情緒的ではない、ロスコ―の絵には情緒を感じる。というように考えると少し情緒性がはっきりする。抽象画であるから情緒性がないとは言えない。美人画というものがあるが、あれは情緒性がかなり重さを占めている。そしてそうでない人物が描かれていれば、萬鉄五郎の裸婦像は人物画と言われるのだろう。上手く説明できない。説明はできないが、情緒性を取り外した絵画でありたいと考えている。絵画全般において情緒性が何を意味するのかというような問題は、私には良く分かっていない。茶碗を見て、いい形だな。良い色だな。寂しいな。世界観があるな。というようなもの言いの裏側に情緒性の重さがどのくらいかという事。こういうことを考えてみるのは、日本人の作品が、情緒に寄りかかって絵が描かれている気がしているからだ。ロスコ―の絵を評価する人が、実はその情緒性に魅かれているに過ぎなかったりする。

この情緒的と見える何ものかは、かなり根深いものだ。平安時代の枯れ草図に日本的と言われる抒情性があふれている。水彩画はみずゑ呼ばれ、水に縁が深いから、情緒的な印象が強い。薄い色調とかぼかしやにじみが、情緒性と連動しているかのようだ。曖昧な表現の穴埋めのように情緒性を持ち込むことが多い。水っぽい情緒だけをよりどころにしたような絵も、確かに見かける。静物画であっても風景画であっても情緒に甘えている絵がある。例えば、カリエールというフランスの画家が日本で特に高く評価されるというようなことだ。情緒性への問題の指摘は明治以来繰り返し行われてきたところでもある。西洋絵画へ脱皮するためには、この日本人的情緒が邪魔をしている。と繰り返し言われたわけだ。安井曽太郎はそういう方向だろう。水彩画でも中西利夫の絵はそういう方向だと思う。骨格のある絵とか、骨組みがなければならないとか、絵は構造的である必要があるなど言われている。絵には強さが必要だ。絵が建築的である結果強くなる。等とも言われてきた。

北斎の絵は情緒性に依存したところがない。江戸情緒などと言われるが、あれは明治時代に過去懐かしむ気持ちからきている。思い出すというところに、情緒がある。今見ているものに対峙するのでなく、過去のものを回想する。ここに情緒が介在してくる。浮世絵を見ていると日本人は本来情緒的ではなかったのかもしれないと思えてくる。もちろん江戸時代の日本画にも、枯れすすき的なものは多い。もののあわれという世界観。これは貴族文化なのかもしれない。しかし庶民の世界では明快な今の流行が広がっていた。支配階級の美意識が情緒的で迂回している。庶民は率直。支配階級の精神性を重んずるところに、むしろ情緒が介入してくる。精神性というような明確ではないところに、むしろ抒情が入り込む。侘び寂びではなく、見ているものに率直に向かい合う大切さ。

現実以外に自分というものに向かい合う事は出来ないということだろう。松本俊介の自画像は自分と向かい合っているようで、むしろ自分を眺めているという印象を受ける。過去の世界を見るように目を細めて、自分を見ている。それは確かに人を引き付けるのだが、この引き付ける要素を切り捨てないと、通俗に陥る。本当の自分と向かい合う事は出来ない。自画像で言えばゴッホの耳のない自画像である。現実以外の要素は何もない。寄りかかるものがないというすすさましい率直。マチスの切り絵の明快さである。寄り掛かるものを無くす。浮世絵に近い感触。

 

 

 

 

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