水彩人作品評 自己作品評

   

 

水彩人の作品評を続ける。ブログで作品評を書くと、水彩人の考え方を表しているかのように考える人もいるかもしれない。ここでの絵に対する考えは水彩人の中の一人の考えである。水彩人は多様で、絵が違うように、絵に対する考え方も違う。今回は私自身の絵の感想を書いてみる。石垣島の風景3点である。大きさは中判全紙である。紙はファブリアーノの厚い紙。中央の絵は画集に載せてもらった絵。

工夫は止そうと考えている。緑に見えるものをわざわざ他の色にする意味が見えない間はそのまま緑に描く。見えるという事を重視ている。海の色もその時に見えるようにやってみている。それが正しいというよりも、あえて他の色で塗る意味が今のところ見えないからだ。全く途上である。作品とは何かという事は離れている。自分の絵に至る為に、自分が学んだものや、癖のような描く手順を捨て去ろうと考えている。時間はかかるだろうし、無意味なことに終わるかもしれない。ただもう一度、自分を確認したい。別段良い絵でなくともよい。今までの自分が獲得してきた、絵画を磨き上げるようなことはやりたくない。ただただ、自分といものが見ているのもに正直にありたい。まだ見えているように描けたことはない。この不思議を解決したくてそれだけである。

「名蔵湾 夕照」中央の絵、見えたように描いている。風景の中にある動きというものを描いている。絵での動きの事はムーブマンとフランス語で言われる。この意味はどういう事だろう。確かに風景を眺めていると、空間の中に力が働いている。方向性もある。然し絵のムーブマンがそれなのかはわからない。もう一つに絵作りのための画面上の動きというものもある。風景の中の動きと、柵が的な構成の動きとは同じなのだろうか。自分の眼ではそのことをどういうものと見ているのか。よくわからないまま、風景の中にある方向性のようなものを追ってみている。

左の絵は「石垣島名蔵湾」朝日が昇るころに名蔵湾に行くと、この世界にこれほどの色の美しさがあるのかと驚く。一瞬この色の饗宴のなかに巻き込まれる。ありきたりであるが、地球がこれほどの美しさ多様さを表現できるのかと信じがたいものがある。この色の美しさをなんとかそのまま写し取れないかと思い描いた。到底不可能である。出来るはずもないのだが、一瞬の色の輝きと言うとボナールの絵を思い出す。ボナールならどう描くだろう。いつの間にかボナールの絵の色で風景を見ているところがある。学習した目で見ていては、本当の自分に至れないのかどうか。全ては学習して獲得した美意識なのかもしれない。悩みどころだ。どうも絵の上に置き換える色の美しさには工夫がいる。この工夫が、絵を描く技術というのだろう。見えたとしても、描くことはまた違う。見えたように描く為には技術は必要である。まだまだ努力不足。

右側が「石垣島の田んぼ」この田んぼは冠鷲が来る田んぼだ。奥の方から水が湧きだしていて、その水で作られた田んぼだ。多分何百年前はマングローブの茂みだったのだろう。切り開きその地形に併せて田んぼが作られている。何とも良い加減の田んぼだ。この田んぼを出来る限り水彩画の薄い彩色の美しさで描いてみようと考えた。水彩画を白い紙に薄く乗せると、純粋に色としての一番の美しさがある。この美しさだけを生かして描く方法が淡彩画であろう。鉛筆の素描に、あっさりと色を載せたような絵である。一般的にはこのやり方を水彩画と考える人もいるのだろう。あのやり方では、絵画は出来ない。そう考えて薄い彩色で絵画に挑戦してみた。せいぜい2度塗りぐらいだ。色は美しい。ただ描くべきものがまだ描けていない。この不十分な感じをどうしたらいいのか。そう考えながらもこれは終わりにした。これでもよいのかもしれないと見ながら考えている。

 水彩人展が研究会展であるという原点がうれしい。水彩画を研究するために集まっている会だ。研究は結論だけの世界ではない。互いの研究途上を見せることも意味があると思う。絵を語る会を会場でおこなっている。これをおかしいという人がいた。見に来てくれるお客さんに迷惑だというのだ。それは違う。違うどころか困った考えだ。水彩人展は研究の場を公開しているのだ。見て頂くというのも研究であるが、ここに絵を集めて互いが学ぶという事以上のことはない。余りに鑑賞の邪魔になるのも困るが、水彩人展は研究の場を公開をしている。絵を語る会を含めて、研究をしてゆくことが目的である。また必要なことだと考えている。研究を無料で公開しているのだ。邪魔にならない範囲で研究している姿を迷惑だと考える人はいないはずだ。

 

 

 - 水彩画