水彩人展作品評
水彩人展の作品評を書く。毎年書いているのだが、今年は会員の人の作品が目覚ましく良くなっている。会員の人は水彩人で育った人だ。水彩人で育った人が、素晴らしい水彩画家になっている。このことは水彩人をやってよかったと思えることだ。良い仲間がいるという事が、自分の絵の励みである。水彩人展は東京都美術館で開催されている。5日の14時までだ。水彩画をやる人であれば、ぜひとも見て欲しい。これほど多様に水彩画が並んでいる場所はない。連日、水彩画の制作の公開も行っている。これがなかなか面白い。みんな本気で描いているので、ついつい見に行ってしまう。
山下美保子さん。迷いの中で描いていた。このように迷いが作品になった。迷いから抜け出たともいえるが、むしろ迷いが絵として現れたと言った方がいい。表現というものの意味を教えられる。何か分かったことを表現するのが絵ではなく、分かろうとしてり、探ったり、そして迷いというものをそのまま表現する。普通は迷いに一定の結論を求めてしまうものだ。これをしない新しい絵だ。実に今後の展開を見せてもらう事が楽しみである。
関とも子さんは素晴らしかった。絵がある境地に至った感がある。真実を見ている眼がある。今回同人に推挙された。水彩画というものの在り方を示した。特別のものを描いて居るわけでもない。どこにでもある日本の風景である。特別な技術を使っているわけでもない。上手な絵でもない。素朴に、紙と向き合い、誠実に見えるものに向かい合っている。そこに人間がいる。たぶん、この絵の素晴らしさはコンクールのような世界で見落とされるのかもしれない。派手な見せ場など全くない。静かにこの絵と向かい合う。いつの間にかこの里山の姿から、そのままで、生きていてもいいよ。というような声が聞こえた。
高木玲子さんは絵が面白くなってきた。何とも言えないエスプリがある。しゃれている。モノを見る目がすばらしい。のどかで、明るい。人を動かす力のある絵だ。こんな絵が部屋に飾られていたら毎日の暮らしが明かるく成るだろう。絵というものの意味を再認識させられる。つい哲学とか、世界観とか大げさに考えてしまうが、普通の暮らしの目が必要だ。暮らしの中で意味があるというものほど、大切なものはない。ここでも学ばせてもらった。
稲村美穂子さん。不可思議な絵だ。樹木を描くという事は木に反映させて自分が描かれる。樹木を描く人は多いいが、この林との組み合わせが格別に良い。林の空気は静かで和やかである。秋のさわやかな風さえ感じる。そこに一人佇む取り残されたような老木。この林の守り神のような古木が、若木の林に取り残されている。哀れささえ感じる。しかし、毅然として立つ。孤独なのか、孤高なのか。木魂の響きが伝わってくる。細部に迫りながら、全体性を失わない。すごいことだと思う。
鈴木秀雄さんの流れの絵。鈴木さんも今回同人に推挙された。水彩画では水の絵は様々ある。水彩だから水を描くことに向いていると思いがちだが、そういうものでもない。透明感を表すために、透明水彩が良いというようなものでもない。ここまで水を描いた絵は少ないのではないだろうか。濡れる水である。この場所を見つめる人がいる。描写の絵画はその技術をどこまで徹底できるかが重要であるが、とことん進むとその先にいる人間が見える。鈴木さんの精密描写はこの方の誠実な人間が見えてくるのだ。以前、苔の学者のボタニカルアートの作品を見たことがあるが、あの時の感動を思い出す。作者は描写に徹することに専念しているのだが、自ずとそれを表す人間というものが立現れてしまう。
会員の人達はいつも顔を合わせているので、こうして写真を掲載しても許してくれるので、写真を載せさせてもらった。ホームページの方にもまた紹介させてもらった。