下田のお吉さんの墓

   

唐人お吉

お吉さんの写真とされるもの。実際に会ったことのある人の意見に基づいて作られた像とも似てはいる。

下田でいつも絵を描いている須崎にゆくには、必ずアメリカ領事館のあった玉泉寺の前を通る。ミシュラン2つ星だそうで外国人が歩いていることもままある。下田は幕末の歴史では、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など歴史の表舞台であった。アメリカに密航しようとして黒船に渡るも、ハリスに断られて処刑される吉田松陰。密航しようと一夜明かした弁天島が今は半島のように地続きになっている。土佐藩主・山内容堂と幕臣勝海舟は下田で謁見した。勝海舟の船と山之内容堂の船は嵐で下田港にたまたま入港した。その席で海舟が竜馬の土佐藩脱藩の罪を解くよう容堂に直訴したと言われている。竜馬もその船に同船していたのだ。竜馬はその時料亭で待機していたという。玉泉寺は日本初のアメリカ領事館で、外人墓地があり、日本で初めて牛乳の搾乳や牛の屠場にも使われた。森永乳業による記念碑がある。須崎半島の斜面の狭い場所のわりに、中に入ると意外に大きなお寺である。ハリスと幕府との延々と続く交渉記録は実に巧みな江戸幕府の外交力と言われている。

下田の港の方に行くとお吉さんのお墓の前を通る。宝福寺というお寺である。通るときはいつも冥福を祈らせてもらう。お吉さんは悲しい人だ。アメリカ領事ハリスの要望により、幕府が無理やりお世話係として勤めさせる。これも巧みな交渉に入っている。お吉さんは領事館があった玉泉寺へ毎日通うこととなった。ハリスは体調が悪く看護婦を要望したとされる。しかし、幕府側はハリスの要望を邪推してというか、忖度した。下田一の芸妓をハリスのお世話係に上げる。お吉さんは14歳で芸妓(げいこ)となり、その美貌で評判となった。17歳の時に下田奉行所の伊差新次郎に説得される。法外な年俸と引き換えに「アメリカ総領事・ハリスのもとへ侍妾として奉公にあがるべし」と命じられたのである。しかし、ハリスの要望は療養目的で回復し、3ヵ月(3日間説もあり)で解雇となる。その後のお吉さんは唐人お吉と呼ばれ、蔑まれるように暮らすことになる。何故唐人と呼ばれたか。お吉さんはその後酒におぼれ蓮台寺で自害して果てる。その遺体は放置されたままであったものを宝福寺の住職が引き取り埋葬した、と書かれている。

何故、唐人お吉と呼ばれるかである。蔑称である。差別である。アメリカ人の所に行くなど日本人ではないというので、唐人お吉と言われたのだろう。日本人の情けないところだ。お吉さんを許さなかった下田は今でも、無意識なのか、意識してか、齋藤吉さんを唐人お吉と呼び習わしている。そんな看板がまだある。唐人とはひどいではないか。中国人に対しても失礼だ。中国人観光客も増えている。今回もだいぶすれ違った。観光地でありながらいつまでも、どういう了見ででこんな言葉を残しているのだ。悲しい限りだ。日本人を唐人と呼ぶところが、差別なのだ。差別することで自分たちの領域を守ろうという意識が感じられる。明治という時代に差別の意識があったことは、脱亜入欧というスローガンからも伺えるが、今の時代にまでこの唐人お吉という言葉が残っていることが情けない。

フランスにいた頃差別を受けた。フランスに差別はないと言いながらも、差別を感じることは3回ほどあった。パリのボザールの同級生から、日本には絵などないだろう。何故、こうもたくさんにフランスに来るのだと正面から言われたことがある。日本人が美術学校に来ることが迷惑だというのだ。日本人が猿真似でフランス絵画を学んでどうなるものでもない。そもそも日本には美術などないではないか。と言われた。後でチュニジア人のモデルの人に、フランス人はアフリカには美術などないと考えていると言って慰められた。差別はされる側以上に差別する側の、実態を表している。下田がどういう町であるかが、こういうところで見えてしまうのだ。

 

 

 

 - 身辺雑記