日本の水土の復活の願い
日本は変わった。江戸時代から、明治になって日本が変わったということは誰にでもわかる。ちょんまげの時代から、ザンギリ頭の時代になった。伝統的な風俗を捨てて、西欧風に変わろうとしてきた。愚かにも大日本帝国を目指し、戦争に敗れざせつした。反省して、民主主義国家として技術立国しようと今度もまた、やみくもに頑張った。一定の成功を収めた。ところが、企業競争が新興国の追い上げで厳しさを増してきた。競争に勝ち続けることはできないと感じ始めている。自信も失い始め、普通の国になりたいという、新しい時代を迎えている。そして、得体のしれない独裁国家に生まれ変わろうとしている。政治の目指す方角が明治の帝国主義の復活のようでもあり、グローバル企業の支配する国のようでもある。その特徴的なことは、不思議な独裁政治を、生み出しているのは日本国民の民主主義的な総意という点だろう。自分の暮らしをよくしてくれるなら、帝国主義であろうが、グローバル企業であろうが、宗教政党でも構わないという事のようだ。理念を見失った国。
日本の経済状況が変わり始めていることに、国民の意識が国の動きについていけないのだろう。この20年はどう頑張っても生活は変わりそうにないという時代が続いた。能力主義時代という事で、能力が高ければ優遇されるが、普通の人は頑張ろうが何も変わらない。もう今更、誰かに頑張ってもらという他人任せの気分。グローバル企業でもいいし、日本帝国でもいいので、他人の頑張りで自分の暮らしを引き上げてもらえないかという、新しい形のお上頼みの意識の蔓延。この意識の操作を電通的に巧みなことが、アベ政権という独裁政治の登場になったのではなかろうか。アベノミックスは客観的に見れば明らかな失敗であるが、他に方法がないように思いこまされている。それは、評論というものが失われたという事ではないだろうか。感想を述べる程度の人はいるが、未来の日本社会はどうあるべきだと語るような人は存在しない。政治漫談家風な人がいるが、思想家といえるような人そのいない時代。
アベ政治を批判する政治漫談家は居ても、日本がどこに行くべきかを、哲学を持って主張できる政治思想家がいない。多分そんなことを考えている人はテレビ受けしないのだろう。貧しいさをとらえきれない社会。豊かさと経済的貧困との関係。自分の暮らしと繋がる、日本の経済の方角はどこにあるのだろうか。グローバル企業と共産主義の関係はどう考えればいいのだろうか。日本の経済が孤立すればいいとは思えない。キューバの出した結論を見れば、そう思わざる得ない。私は日本主義者である。安倍氏よりも明確に瑞穂の国が好きだ。しかも共産主義のほうが、資本主義よりもいいと考えている。だからというのも変なのだが、日本という国の水土の復活を願っている。つまり、日本の水土は共同で維持されるものなのだ。競争では成立しないものなのだ。水土とは、暮らしが作り出した自然と人間が融合した環境である。
日本の水土の復活こそ、世界平和の一つの道だ。競争ではなく共同である。自分が良くなるためには、全体が良くならhなければならないという社会。人を蹴落とすしかない社会。勝者がいる社会は不幸な社会ではなかろうか。世界が経済競争を繰り返せば、必ず敗者と勝者が決まる。敗者は勝者に対して、テロ戦争を仕掛ける。競争でのみ人間は努力すると考える、ことは間違いではないだろうか。人間が力を出せるときは、人のためになった時だ。人に喜んでもらえた時にこそ、人間は生き生きする。人のためになった時こそうれしいものだ。人の為のほうが力が出る人。共同の暮らしが作り出してきたものが、日本の水土。環境を循環させる暮らし。人口が適正に向かっている。水土に根差し、暮らしを立て直すことは可能になった。人は、食料のためには、一日1時間。100坪の土地で暮らしてゆける。ありがたい日本の水土を育てる。