私の水彩画の描き方
これは笹村出が絵を描くとき心にとめていることである。他の人には害になるばかりなので参考になるようなものではない。農作業をする時は絵を描くつもりで。畑をやっているときには畑を画面だと考えて作業をする。土を耕せば土の感触や色を絵にしたらどうなるかの観察を続ける。種を蒔けば、どのように発芽するのか、どのように土を押し上げるのか、その勢いのようなものがどういう力なのか、絵に於いてその力のどうなるのか。そういう作物の生育のエネルギーをどう描けるのか。田んぼでは、土壌と水のかかわりをよく見る。その変化し続ける状態を繰り返し絵にしてみる。稲の芽が出てから田植えまでの土壌の色の変化を、稲の色の変化。何故色が変わるのかその意味の必然を絵ではどう表現できるかをやってみる。田植え後の色の変化がなぜ起こるのか、葉が一枚出るごとに稲一本がどう変わるのか、そして田んぼ全体ではどのようなことになるのか。田んぼの中に起きる緑の色合いの違いがなぜ起きて、絵に於いてはどういう事になるのか。
里山がどのような状態であれば、良い耕作地になるのか。そういう関係がどういう調和状態に見えるか。雑草と里山の管理され樹林はどういう関係になるのか。そして松や杉檜で植林の行われた山の姿は、どうあれば良いのか。循環してゆく自然と、手入れの関係が、どのように表れているのか。良い里山のバランスというものはどのあたりにあるのか。人を取り巻く自然はどのようなものが、心地よいものなのか。その心地よいを絵にできるものか。呼び覚まされ、描きたくなる不思議なものを見つける。安心してごろ寝が出来るような自然。夜寝転んで星を見上げられるような里山。自然と人間の折り合いのつけ方。そういうものは絵としてはどういう事になるか、それを体で分かるという事。私絵画は描きだす前の自分という人間のことだ。
絵を描くときは、一切何も考えないで一気にかけるところまで描く。様々なことが頭に湧き上がるが、出来るだけ拘泥しないように流し去るようにして、ただただ絵を描く道具になったようなつもりで描き進める。おおよそ、1時間30分から2時間くらい描いて、描きだした思いは尽きる。その時はそれ以上のことはしないようにする。描いた絵は部屋の見えるところに立てかけて置く。納得の行っている絵を回りに置いておく。絵から呼ばれるまでそのままにしておく。ああしてみたらとか、こうしてみたらとか気づくことも受け流しておく。1か月か、2ヵ月か、したころ、不意にこの先をこう進めたいという結論が出たような気になる。その時に描き継ぐ。直すような、修正するような気持が湧いた時には間違っても絵を描かない。描き継ぐことで画面は初めて絵になってゆく。これはアトリエで行う時と、また現場に持って行ってやるか。これもその時々のことだ。
描き継ぐ内容は画面の動きを見出して、その動きを整理するという事らしい。その画面を無意識に作り上げた自分がどんな動きを見つけようとしたのかを、再度解きほぐし、どうすればそのことが浮かび上がるかを考えている。それは自分が描こうとする、私絵画と、眼前にある絵との調整のような、交渉のようなものだ。画面というものの中にある動きを探るという事。一枚の絵の中には、画面の場所がある。その場所が正し位置にあるか。明度の加減、色の濃度、面の方向、線の勢いの方向。それらのすべてが収まった時に画面は出来上がる。その絵に於ける大きな動きを捕まえない限り、そのあるべき場に収まらない。大きな動きは自然にの中で発見出来るものだが、それがひとたび画面の問題になった時には、純粋に画面上の問題に変わる。これらのことを考えているときには、そのものの意味は、つまり木であるとか、草であるとかはほとんど関係しない。純粋に色であり、線である。